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「伊豆海村後日譚」(18)

 駅前のかつて二十四時間営業だったコーヒーショップは、『混乱の五年』黎明期は割れたガラスが床に散らばるコンクリート製の箱でしかなく、動乱が終息を迎えた頃に日中営業のみ再開された。その店の鉄格子にガードされた窓ガラスに面したカウンターで、ひとりコーヒーをすすっていた白髪の老人は、五十歳頃の夫婦らしき二人が目の前を通り過ぎるのを確認し、店を出てその後を追った。
 夫婦はすぐに老人の存在に気付いたが、振り返りはしなかった。
 そのまま三人は微妙な距離を保ちながら沼津駅南口改札に向かう。その視線の先には、何の変装も施さずに立っているパク・ジョンヒョンへと近づく痩せた少女がいた。
 
 その数時間前。
「沼津駅に七時なんや」
 闇に包まれた空の底に、うっすらと群青色が流し込まれ始めた頃、新井は十五歳の職業婦人に向かってつぶやいた。夢か現実か、眠っているのか起きているのか、その境界が混然となって水の底で息を潜めているような時間を、二人は一夜かけて共有した。
 ニュースで見た満海出身者四人の顔写真は役に立たない。本当は警察も彼らの近々の写真を持っていて、それをマスコミには秘匿しているだけかも知れないという考えも浮かんだが、曲がりなりにも裏街道を五年以上歩いてきた経験がそれを打ち消した。状況証拠だけでこれだけの情報を垂れ流してきた警察が、ここへきて手持ちのカードを出し惜しみする理由がない。
 つまり、一番ヤバいのはこの俺や。
 顔写真は今隣にいるガキにも一目で看破されたし、ボクサー時代の映像は同じチャンネルで昨夜だけで四回見た。昨日痛めつけたどこぞの高校生どもも警察と一緒に駅前でウロチョロしているだろう。
「行っちゃだめだよ」少女は言った。わざわざ捕まりに行くようなものじゃない。
「まあその通りやけどな」
 新井は壁にもたれた。窓ガラスの向こう、町が動き始めている。朝を迎え、人が起き出し、こんな汚れた世界でも毎朝リセットされるのだという感覚を、天地の創造主はその時間に目覚める者だけに教えてくれる。それは悪くない気分だが、甚だ遺憾ながら自分自身の処遇までもがリセットされる訳ではない。
「県境を越えれば、どうにかならない?」
 東京のキー局消滅後、財政的に潤沢といえない地方のテレビ局はその放送時間の多くを著作権の切れた映画やドラマを流すことで何とかスポンサーを掻き集めていたが、その中でも少しずつ独自性を強め、地域に特化した番組を制作、放送するようになっていた。沼津警察署警官殺傷事件もまた、他の国内で頻発する事件と同様、トップニュースとして扱われているのはその一帯だけのことで、神奈川県まで逃げおおせれば誰もこの事件について知らないという期待もあった。髪一本の可能性でも、ゼロではなかった。
「県境までがひと苦労や。道路は封鎖、鉄道駅は全てオマワリが張ってるやろ。それに逃げたところでな、今度は九巻のオヤジが大蛇の本家にメンツが立たへんようになる。俺だけの問題やなくなるし、サツより先にヤクザの方に捕まってみい、どんな仕打ちが待ってるか想像もつかへん。警察の追い込みも相当エグいけど、少なくともあいつらは生きたまま手足縛って山に埋めたりはせえへん」
「本当にそんなことするの?」
「あのなお嬢ちゃん、働く人間は誰しも何かを売って生計を立てとる。昔の俺は殴り合いの技術を売って暮らしとったし、あんたは体を売って生きてきた。ヤクザは何を売ってるか、分かるか」
「ー覚醒剤?」
 新井は噴き出した。もっとでかい商品や。
 少女は首を振った。
「恐怖心や。この人たちに逆らったら何されるか分からへん、そういう恐怖心をカタギどもに植え付けてきたからこそ、ヤクザは通りの真ん中を風切って歩けるんやし、こんな時代になっても電気自動車走らせてぶいぶい言わせられるんや。これが少しでも、あいつらホンマは怒らせても大したことないんとちゃうか、と誰かに思われてみい、それで商売の終わりや。あいつらに黙って毎月の顧問料とやらを払わせ続けるには、時々は生贄出してヤクザの怖さを教えておかなあかんねや」
「で、新井さんが今のとこ最新の生贄という訳ね」
「おまえ、学校戻れ」
 新井は少女の髪に手をやり、それを撫でた。彼女は首を傾け、自分に示される僅かな好意でも体内に記憶させておこうと努めた。
「おまえ、こういう時代にこういう商売してるからかどうかは分からんけど、一聞いて十知るタイプの奴や。一生売春婦で終わるタマやないで。つい五年前までは親に金があるゆうだけで分数の足し算もでけへんようなド阿呆でも大学に行けた。それやのにおまえはこんな汚いアパートの一室で股ぐら開いて、不公平な話やないか」
 喉の奥が震えた。少女は無言のまま男の胸に寄り添い、しばらくそのままでいた。本格的に上り始めた太陽からの光が町を舞う埃をきらきらと輝かせ始める頃まで、少女はそのままの姿勢でいて、男もそれを抱きとめていた。
「駅に行くんなら、私もついていく」
 彼女の言葉に男は体を上げた。何言うてんねん?
「カップルだと少しは警戒されないでしょ?カミソリもあるから髪も落とそう」
「勝手に話を進めるな。おまえには関係ない話やろが」
「新井さんは昨日の夜、私の命を助けてくれた」
 新井は姿勢を正した、あのなお嬢ちゃん。
「名前で呼んでよ」
「あのなあ―、誰かがおまえの首を絞めようとしてたところを俺が止めたっちゅうんなら、それは確かに俺が助けたってことや。他ならぬ俺がおまえを殺そうとして、自分でそれを止めた。それは助けたという意味にはならへんのや」
「細かい理屈はどうでもいいの。私は助けてもらったと思ってるんだから、そう思わせておいて」
 少女の表情に刻み込まれた揺るぎのない決意に、男はそれ以上の口論を諦めた。
「分かった、ほなついて来い。その代わりもし途中どこかでポリ公に呼び止められて、俺の素性がバレてしもたら、おまえはこう喚くんや、この人がいきなり後ろから追いかけてきて、私を脅したんです、とな」
 少女は首を振った。新井も同じようにした。
「これは取引や。俺がもし死んでも、おまえは生き残れ。そんで時々は俺のことを思い出せ。そのための条件や。守られへんのなら俺は今すぐおまえを殴りつけて気絶させて、一人で出ていく」
 少女は渋々頷き、その二十分後、男は丸坊主になっていた。「よけい目立つ気がする」
「むしろ今時普通でしょう?」
 多摩上空で濃縮ウランが核分裂を起こした日以来、老若男女に関係なく無毛の人間が増え、この停滞した日本経済にあって、かつらメーカーは史上空前の株価を維持している。
「新井さんの体には小さいけど、男物のTシャツなら何枚かはあるし、サングラスも持ってって」
 男は少女を伴って六時半にアパートを出た。外に一歩踏み出した途端、得体の知れない数千数万の腕が伸びてきて、自分をがんじがらめにする感覚に襲われた。足が止まる。
 少女は敏感に察知した。ちょっと休む?
 ずれてもいないサングラスをかけ直した。こんなガキに同情されてたまるか。
「大丈夫」男は歩き始めた。少女はぴったりと腕を絡めてきたが、全身の硬直はあからさまに伝わってきた。
「なあ―」新井は少女の名を呼んだ。彼女は前を向いたまま、何?とだけ答えた。
「俺がもし無事に今回の件カタつけれたら、またおまえのアパートに行ってええかな。それとも場所は忘れるのが約束やったか」
 女は男の太い腕に巻いた自分の細い腕に力を込め、その貧弱な胸を男の肘に押し付けた。
「昨夜はやってあげられなかったけど、私のフェラはね、多分特養の入居者でも勃たせることができると思う」
 男は歯を見せた。楽しみにしてるで。
 駅前のアーケード。二人は密着したまま大声で笑い合い、自分たちの考え得る限り能天気なカップルを演じながら歩いた。人相の悪い男二人組がちらほらと視界を掠るようになり、新井と少女は裏道に入った。
 もう一人の自分が幽体離脱したようにそれを客観的に眺めている感覚も並走して続いている。どう考えても自分が捕まらずにこの時間と空間をやり過ごせられるのは無理だろうという諦念が、かえって彼に落ち着きを与えていた。色々とあったけど最後に女と腕組んで死ねるのならこの人生も悪くなかったな。
 一分も歩かぬうちに駅が見えてきた。
「改札、見える?」少女が尋ね、男が頷く。
「お仲間、いる?」
 パク・ジョンヒョンの姿はすぐに分かった。一切変装することなく駅前を堂々と歩いていた。五年近く付き合ってきた新井の目には、兵士としては他の三人より能力が劣るように見えた男だったが、それでもあの満海国で生き抜いてきただけの胆力の持ち主だった。
「あそこにちょっとええ男がおるやろ」
 新井が高校生相手に立ち回りを演じたコンビニの前。東西南北どこから眺めても刑事以外には見えない男たちがクラムチャウダーのように充満していたが、わざわざその中を突っ切る素朴な風合いの二枚目を、昨日の警官殺しに結び付ける者は一人もいなかった。
「あれがパク・ジョンヒョンや」
「テレビで見た写真とは全然が違うね」
「俺はここで待ってる。悪いけど、おまえはあいつのとこに行って、私は新井の代理人やと自己紹介して、次どうするか聞いてきてくれ。俺は後から合流すると」
「分かった」少女は駅へと小走りで向かい、新井は数歩の距離にあった牛丼屋に入った。
 
 十分後、ジョンヒョンと言葉を交わした少女は、そこにも消しようのない公権力臭を発散させた男二名が坊主頭の男に時折視線を送っている牛丼屋の店内に足を踏み入れ、新井敦司の元に真っすぐ向かって叫んだ。「よっちゃん、さあ下田に帰るよ」
 刑事の視線がすっと外される。少女は男の隣に座り、話せたよ、とだけ囁いた。
「私の番号教えた」
「携帯はヤバいやろ」
「新しくプリペイドのやつを買ったと言ってた」
 少女の携帯から電子音が鳴り響いた。湘南サウンドの旗手と呼ばれたバンドの往年のヒット曲。今世紀初めに一旦解散した彼らはその後復活し、核爆弾が炸裂した翌年、リーダーが古希を目前に迎えるまで活動を続けた。
 届いたショートメールを開く。
(八木橋行き)
 少女は声を上げた。
「よっちゃん、下田に帰る前に海見ていこうよ」
 店を出る。刑事は追ってこなかった。
「八木橋ってどこや」
「西伊豆のほう。バスで行くけど駅前から乗るのは危険だと思う」
 二人は沼津駅から二つ目の停留所まで歩いた。尾行者の気配はなかった。

 沼津駅前六番バス乗り場に停まっていた「八木橋行き」バスは、パク・ジョンヒョンと白髪の老人、五十代おぼしき夫婦、整った顔立ちをしたショートカットの若い女性、ハイキングの服装をした四人組の老人グループを乗せて七時十七分に出発し、七時十九分、紙土停留所で丸坊主の男と痩せた女のカップルを拾った。 
「おまえのお蔭で助かった。五、六コ停留所を過ぎたら降りて、自分の部屋に帰れ」
 私の役割は終わったのだ。彼女は頷きながら最後に新井の手を握る。
「次は私のテクニック、ちゃんと試して」
 男は眼だけで微笑みながら首を縦に振った。
「ムスコともども、また会える日を楽しみにしております」
「ーバカ」
 五分後バスを降りた少女は、新井に一瞥すら与えることなく、車が走ってきた道を戻っていった。
「恋人ですか」
 白髪の老人が話しかけてきた。老人の皺枯れた声はしかし、聞き慣れた男のものだった。
「ええ、まあ」
「若い人は羨ましい」
 老人は新井の隣に腰を下ろし、小さな声で囁いた。今度同じ立ち回りをやったら殺す。
 新井は黙ったまま頭を下げ、老人は自分の席へと戻った。
 
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