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「伊豆海村後日譚」(25)

 すっ、と体温が下がるのを船戸は感じる。
 不思議なことに一瞬で汗が消えた。
 胸の高鳴りは相変わらずだったが、全身を支配する緊張が精神の許容量を超えた過電流となって、思考回路のヒューズを飛ばしてくれたようだ。ひたひたと近づく足音が気味悪いぐらいによく聞こえる。
 息を止める。不思議と苦しさを感じない。このまま三十分でも呼吸を停止し続けられそうな気がする。
 七歩。足音が止み、男の手がカウンターに置かれた。上半身を伸ばし、覗き込んでくる。船戸は顔を上げた。男と目が合う。自分の網膜に映り、脳に送られた映像のそのあまりの意外さに、脳が一瞬咀嚼できなかったのか、新井は驚愕を顔中に貼り付け、眼を見開いている。彼が本当にしばらく動かなかったのか、それとも現実にはそれはゼロコンマ何秒かのことで、限界以上に集中していた船戸の超感覚の中で止まって見えただけなのか、誰にも分からないし彼自身にも分からない。
 今だ!と本能が叫ぶ声に従って、若者は自分の体を別の人格が動かしているようなあの体感を全身に味わいながら、夢中でその方向へと銃を突き立てた。ぐにゃっとした手応えが指先に伝わる。
 船戸は一気に立ち上がった。カウンターの向こうで男が右眼を押さえたまま中腰になっている。その指の隙間から流れる赤色の液体がわずかに見えた。
 銃を払った。がつん、という鈍い音を残して先端が男の後頭部にヒットした。咄嗟の判断で発砲はしなかった。電源を切る前にトランシーバーが受信した連中の会話。塩谷というまだ船戸自身は会ったことのない老夫婦をこの新井が殺した。そしてこの男に対して、リーダーが渚無線から指示を出している公算が高い。
 旅人はカウンターを回って、瞬時に外へと眼を走らせた。人の気配はない。
 元ボクサーに近づく。あと一、二発で仕留めなければならない。たとえ相手が酔っていて、片目が使えなくて、怪我の痛みに支配された状態であっても。
 今この状態においてさえ、貴我間の力関係はイーブンではない。俺には格闘技の経験もなければ、殴り合いの喧嘩をした記憶もない。苛められていた中学生の頃、奴らに一発もやり返せなかった。
 慎重に近づき、機があれば逡巡なく襲わなければならない。この目の前の化け物と俺が唯一張り合えるのは、そう、人を殺した経験だけ。
「ぶっ殺してやる!」
 血の泉となった右眼から手を放し、元ボクサーが若者に躍り掛かった。
 新井は激しい混乱の中にいた。
 痛みよりも精神的なショックの方が大きかった。
 久しぶりに口にした酒、昼間から飲む酒。自覚していた以上に酔っていた彼は、カウンターに手をついてその下を見て、何故今ここに人がいるのだろう、何故こいつはライフルを持っているのだろう、と一瞬呑気に考え込んでしまい、気がついた時には右眼を抉られていた。
 急激に外来危機が迫った刹那、脳は次の事態に備えて血管の収縮、血液の凝固を促す化学物質の分泌を体内に指令する。まずは命を守る、という目的を最優先させるのだ。そのために視覚情報の脳への伝達と、その情報に応じた運動神経への指令が、それぞれ遅れてしまう。瀕死の状態に陥った時、周囲の風景がスローモーションのように見え、体の動きが一瞬止まるタキサイキア現象は、いわば生存本能の一種として陥る不可避的な反応であったが、新井はもちろんそんな現象に関する知識などなかったから、思考と行動を一瞬止めてしまった自分を恥じ、自身に怒り心頭となり、要するに我を忘れてしまった。
 脳と直結した器官である眼球。傷の痛みは想像を遥かに超越していた。皮肉にもそのお蔭で、攻撃の第二波ーおそらくはライフルで後頭部を殴られたーは致命傷にならず、逆に彼の闘争心に火をつけた。片目のまま振りかぶるように打つフックは空を切り、相手は足を止めた。ライフル銃を手にしながら撃ってもこない。モデルガンかとも思ったが、こいつは発砲音を気にしているのだと気付いた瞬間、噴出したアドレナリンがわずかながら傷の痛みを和らげる。「来いやコラ!ワレも血まみれにしたるわ!」
 新井の勢いに呑まれたように、若者は全身の動きを止めた。やっぱり俺じゃ敵わないという思いが足をすくめさせた。そしてついに元ボクサーの左ジャブが、対戦相手の頬を捉えた。もんどりうって倒れた船戸の切歯が折れ、頬に刺さった。口の中に鉄の苦みが充満する。四つん這いで逃げようとする若者の脇腹を、新井が蹴りつけた。さっきのクソ犬と一緒や。コイツも仰向けにして、死ぬまで腹を踏みつけたる。レバーから胃袋から大腸から、ズタボロにしたる。
 ひっくり返りながらも立とうとする船戸の襟首を掴み、引っ張り上げる。ここで大男が冷静さを失ってさえいなければ、まず背後に回って敵の手にしていた銃を奪い取っていたはずだ。それで決着はついていたはずだ。
 しかし彼はそうしなかった。とにかくこいつのツラを殴って、殴って、殴り続ける、そんな欲求にとり憑かれていた。
「兄ちゃん、威勢ええのは初めだけかい。立ちたいなら立たせてやるわ」
 そして捕獲した獲物を正面に向き合う形で引き上げ、その鼻柱に叩きつけてやろうと右拳を引いたその時、弱者が口から大量の液体を噴いた。折れた歯から溢れ出た血は、飛沫となって新井の生き残った左眼の角膜を覆った。両目の視野を失った男に、正気を失ったように若者が握り直したライフルで叩きつける。一度、二度、三度、四度。
「なんじゃいこらあ!ワレいつまでいちびっとんじゃあ!」
 新井は両手を振り回し、所品陳列棚を倒した。大音響とともに商品が散らばる。
 涙を流し続け、左眼に視覚が戻ったと思ったら、額に衝撃が走る。船戸が離れた位置から缶詰を投げつけていた。
 回復した方の眼で睨みつけられた若者は、踵を返して店の裏口から外に逃げ出した。
「待てやこのガキ!」極道は追いかけようとして、床に散らばった商品を踏み、転倒した。別の棚がまた倒れた。
 
「現在市内に潜伏中と見られる元満海人民軍パク・チョルス一味は、関係者筋の情報によりますと、明日の朝九時沼津港を出港し、満海民政化信託統治領、旧満海民主主義人民共和国のハスン港に向かう予定であった『いいすとしいびいなす丸』の乗組員として昨日、この地に到着したものと見られています。それでは沼津港とつながっておりますので、現場の池田さんを呼んでみましょうー」
 沼津港が映った。テレビ画面を眺める元少佐と、既に女装を解いていたその部下の眼差しは、液晶画面を溶かしそうなほど強烈な光を湛えている。その画面の向こうで、若い男がマイクを持って登場してきた。
「こちら沼津港では、朝から四十名の県警機動隊が動員され、ものものしい雰囲気に満ちています。本日夕方には静岡県警からの要請を受けた愛知県警からも、中部国際空港での警備を担当する特殊急襲部隊、いわゆるSATの派遣が予定されております。詳細な時刻や配備場所、人員数は公表されておりませんが、近隣県警の一体となった協力体制が、今回の事件に対する警察の姿勢を浮き彫りにしています」
「ご苦労様です池田さん。ではここで街の声を聞いてみます」
 テレビの画面が切り替わった。
「怖いよね」
「子供連れて外に出られないよ。警察は何やってんの」
「自分たちの身内が殺された時は、県警も張り切るんだねえ」
 そしてインタビュー映像は満海出身者とおぼしき男が経営する冷麵屋を映した。
「同胞の恥だよ」
 その刹那、拳はそれ自体が独自の意思を持った生き物のように、目の前のテーブルにのめり込んでいたーこのパンチョッパリが。
 いそいそとチョッパリどもにメシを作り、愛想笑いを浮かべ、コメツキバッタのように頭を下げ、そんな風にして生きてきたおまえが、俺を同胞の恥だと?
 握った拳をテーブルに埋めたまま、男はぴくりとも動かずテレビを睨み続けた。
 渚は頭を振った。俺ももう終わりかもな。
 二人の兵士から発散される強烈な熱が無線屋店内の温度までも上げようかと思われたその時、外から異音が聞こえた。パク・チョルスとチェ・ヨンナムは弾かれたように眼を見合わせた。渚の鼓膜も、その大量の固形物が散らばるような音を捉えた。そして風に乗って、「ガキ!」という咆哮が流れてくる。
 新井が何らかのトラブルに巻き込まれている。あいつもまた無能なパンチョッパリの一人だ。仲間意識も同胞意識も持てないが、こうなった以上チームの員数をいたずらに減らすのは得策ではない。パク・チョルスは無線機の発信ボタンを押した。
 「新井、取れるか?」
 コンビニの裏口はちょっとした空き地になっていて、段ボールやら瓶ビールケースが散乱し、その向こうに雑木林が広がっている。船戸と睨み合っていた新井は、片目で相手の動きを牽制しながら尻ポケットにあった無線機を取り出した。「取れますよ」
「コンビニの方角だと思うが音が聞こえた」
「この集落には三十男が一人いるという話でしたよね。佐々木でしたっけ?女房子供を失ったとかいう。事情も知らんで買い物に来て、カウンターの下に隠れてたようです」
「今どういう状況だ」
「傷は負いましたが大したことありません。五分後には殺してますよ。じゃあ続きをやりますんで、そちらはのんびり警察無線でも探っててくださいや」
「油断するな」
 通話を終えたチョルスは部下に命じた。「様子を見てこい」

 新井はトランシーバーを再びポケットに入れた。
 激しく熱せられた後に冷水をかけられた石のように、空き地を挟んでにらみ合う船戸は落ち着きを取り戻し、聞こえてきた敵の会話から状況を把握した。
 こいつの仲間が渚無線にいること。俺は佐々木某という者と勘違いされていること、従って俺自身はまだ「存在しない者」でいられていること。
 そうなると結論は一つ。
 銃を構えた。神経は冷えている。
 敵の作戦変更に気付かない元ボクサーは、薄ら笑いを浮かべながら近づいてくる。
「兄ちゃん、元プロボクサー相手に大健闘や。そろそろ年貢の納め時やで」
 言い終えた直後、新井の表情は驚きのそれに変わった。口を呆けたまま、腹部に八十九式からの銃弾を受けた男は地面に倒れた。
 船戸は雑木林に駆け込んだ。その直後、店の裏口からチェ・ヨンナムが飛び出してきて拳銃を林に向けて数発撃ち込んだが、標的は既に姿を消していた。
 ヨンナムは舌打ちをしながら新井に近づき、冷ややかに見下ろした。右の眼窩からとめどなく血が流れ、腹部に穿たれた穴からは腸の一部が飛び出さんばかりに膨らんでいる。頭に一発打ち込んで楽にしてやろうという考えは、すぐに打ち消した。こんな事態を予想せず、ロクに武器を携帯することなくこの伊豆の萎びた村にまで来てしまった。そして今、傲然と反旗を翻して逃げ去った男は、置き土産として自分たちの側にいる者を一人消していった。一ポイントを先制されたのだ。
 この死に逝くパンチョッパリに代わって、今から俺が集落を歩き、隠された武器を掻き集めることになるだろうが、どこに「佐々木の息子」とやらが潜んでいるかは分からない。こちらはトカレフで、向うは銃声から察するに八十九式ライフル。まともに撃ち合ったら勝ち目はなく、相手はアマチュアながら土地勘がある。今手元にある飛び道具の、弾の一発たりとも無駄にはできない。気の毒だが元はと言えばこいつの撒いた種もある。因果応報で苦しみ抜いて死んでもらおう。チェ・ヨンナムは踵を返した。
 
 命の灯があと一息で消えるその時、一瞬の力が全身に宿った。
 曲がりなりにも仲間だったはずの男が、慈悲の銃弾をも拒否し、そのまま俺を捨て置いて立ち去ろうとしている。新井は自分の右眼を抉り、自分の腹に穴を開けた男に対する怒りは全く感じなかったが、チェ・ヨンナムに対しては激しい殺意を覚えた。最後の力を振り絞り、元ボクサーは遠ざかろうとする「戦友」の両足を掴んで引き寄せた。拳銃を持ったまま倒れたヨンナムは、拳銃を持ったまま倒れる人間の常として、咄嗟にそれを投げ捨てることもできず、同時に暴発も避けなければならず、結果として銃を持った右手を上に掲げながら、受け身も取れずに顎から地面に倒れた。
「次は私のテクニック、ちゃんと試して」
 八木橋行きのバスで、十五歳の痩せた娼婦から伝えられた言葉。
 新井敦司の脳裏によぎった最後の記憶は、その言葉を発した時、半泣きに見えた女の表情、だった。

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