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「伊豆海村後日譚」(20)

 ザックを背負い、若者が階段を下りてきた。今日までのお約束でしたね。
 汚れてもいないカウンターを拭き続けていた店主は、下を向いたまま、そして雑巾を持つ手を動かし続けたまま、早口で答えた。もう少しここにいたいなら構わん。
 船戸はその言葉がしばらく理解できないように立ちすくみ、やがて慌てたように頷いた。ではまた差し当たり二泊分、お支払いしておきます。
 若者が老人に渡した十二ドル。うち二ドルを店主は返した。
 若者は目を丸めた。「どうして」
「今日から一泊五ドルだ」
 三留は依然として熱心にカウンターを拭いている。その代わり毎日一時間ほど店番を手伝ってくれ。
 旅人は笑顔のまま固まった唇を、更に横に広げた。「今すぐに」
 雲一つない晴天だった。
 
 一時間後、安田が店に入って来た。
「お、今日は若いお供つきですか」
 店主はろくに顔を上げもしなかった。
「コメ5キロありますか」
「七ドル五十セント。後で届けてほしければプラス二ドル」
「それは忍びないーおい船戸くん、今僕が君に声をかけた理由は分かるよな?」
「まあ、何となく」
「家についたら麦のジュースをおごるよ。今や二ドルでは飲めない代物だ」
 船戸は新たな雇い主へと目を向け、店主は手を振った。行ってこい。
 若者は初めてのクライアントに向けて快活に声を飛ばした。
「じゃあ、早速運びましょうか」
 
 安田の妻がついでくれたビールを手に、若者は軒下の縁側に佇んだ。
「この家はね、ここからの風景を見て決めたんだ」
 そう言いながら隣に腰かけた安田と乾杯し、船戸はこくりと頷いた。人の手が入らなくなって久しい棚田が山の上まで続いている。この人工物も十年後二十年後には、再び森に呑まれ、緑の中に還っていくのだろう。それは確かに静謐で穏やかな景色だった。
「雨が降った朝はもっと素晴らしい。一面が霞んでね。日が昇ってくるとレンブラントの絵のような光の筋道が空から降りてきて、棚田のあちこちを照らすんだ。ここにいる老妻とその風景を眺めて、自分たちはいい所に越してきたよね、間違ってはいなかったよね、と何度も言い合ったもんだよ」
 安田は煙草を咥えた。君は?
 若者は首を振った。
「じゃあ、遠慮なく吸わせていただくよ」
 安田はそして、ふうっと煙を吐いた。
「早期退職を期に松戸の家を売り払ってここに越してきた時、私たちは半年間、誰からも挨拶もしてもらえなかった」
「ー渚さんから聞きました」
「そうか」安田はもう一度煙を吐く。こういう時、確かに煙草は便利な代物だ。
「後になってある人から言われたのは、安田さんは何かにつけてこの村と松戸を比較していたと。私たちにはそのつもりはなかったけれど、振り返ってみれば向こうの指摘にも理があった。本当に軽く口走った言葉、愚痴ですらない独り言が、集落の先人たちのプライドを損ねてしまっていた。本屋があればいいのにとかね。そこにあるものを見ようとせず、ないものばかりに神経を注いでいた。村八分されるのも無理はないと今なら理解できる。一昨日から船戸くんはそういうことを一切言わなかった。爺さんどもが好き勝手喋るのをニコニコと聞き続けて、自分の話は聞かれるまでしなかった。そういう態度が私には欠けていたんだ、とまざまざと実感させられた」
「恐れ入ります」
「でもさ船戸くん。差し支えなければ教えて欲しいんだが、君、それで疲れることはないのか?」
 差し支えありますよ。船戸はその言葉を口には出さず、ただ笑い続け、隣に座る初老の男はそんな若者の肩を叩いた。
「君がその表情を保ち続けることで何を守ろうとしているのかは分からない。でもね、顔ってのは心の裏面なんだよ。いつも何かに不満を持っている人間は知らず知らずのうちにそういう顔になるし、いつも朗らかな気持ちでいる者はやっぱりそういう顔になる。逆に言えばね、笑いたくもない時に無理に微笑むことで心が晴れてくることもあるけれど、ずっとずっとそれを絶え間なく続けていくと、いずれ自分の感情を自分で制御できなくなる。俺は悲しいのか嬉しいのか、そんなことも分からなくなって、精神のブレーカーが落ちてしまう。ある日突然、ぷつんと。だから船戸くん、どうしても泣きたい時には泣くべきだし、怒りたい時には怒ればいいんだよ。そうしないと本当に心が早枯れしてしまう」
「ー分かりました」
 場の空気を変えるように、安田は大袈裟に自分の膝を叩いた。
「さ、年寄りの余計な説教は終わりだ。渚さんのところで沼津の警官殺しの続報でも見るか。その後はいつもの寅さんだ。一緒に行くかい?」
 
「なんだ、まだいたのかパックン」老人たちはその憎まれ口とは裏腹に、この若者の登場を心待ちにするようになっていた。
 旅人は五十セントを支払い、彼らの作る円陣に加わった。
「沼津警察署警官殺傷事件の続報です」
 アナウンサーがまるで事件の全責任は私にあるんですと言わんばかりの悲壮な表情で、原稿を読み上げる。
「本日八時半頃、沼津市泉町の元山栄一郎さん宅浴槽で、拳銃で撃たれた男女一名ずつが発見されました。現場の状況より、被害者は元山栄一郎さん五十三歳および妻の悦子さん五十歳と見られております。二人は二十年以上、朝の決まった時間に家の近辺を掃いており、今日姿を見せなかったことを不審に思った近所の住民からの通報を受け、今朝七時より沼津駅を中心にローラー作戦を展開していた警察が家屋に立ち入り、元山さん夫妻と見られる二人が心肺停止の状態であることを確認しました。元山さん宅からは現金や預金通帳が手つかずのまま残っている一方で運転免許証や健康保険証、携帯電話が見つかっておらず、警察は昨日発生した警察官殺傷事件との関連を調べております」
 臨時ニュースの後、押し黙った座を救うように、普段は集落内でも極端に無口な老人である犬飼が口を開いた。
「今日、三留の娘が帰ってくるはずだな」
「まあ腐っても沼津はでけえ街だ。警察もうようよいるだろうし、香ちゃんが犯人たちとばったり出くわすことはまずねえら」
「そんな風に楽観的に考えて、日本の首都はどうなったよ」
 再び沈黙が支配する中、渚が若者に話しかけた。船戸くん。
「はい」
「五十セントは返す。すぐコンビニまで戻り、三留さんのそばにいてやれ。バスは君もよく知ってる通り、正午過ぎに草履停留所に着く。何なら一緒に出迎えに行ってやれ」
「皆さんもご一緒にどうですか」
 船戸の誘いに応じる者は誰もおらず、座のリーダーを自認する渚がその役を担った。
「三留はな、噂話とテレビ鑑賞以外に楽しみを持たないこの集落の連中に、自分の娘を会わせたくないんだ。その理由をあの爺さんは誰も知らないと信じている。いや、そう信じたがっているというのが正確なところだ」
 若者は自分のこの顔が、元に戻せなくなったこの顔が不謹慎と取られないことを祈りながら尋ねた。「すみません、ちょっと意味が」
「分からなくていい。悪いが所詮君は部外者だ。俺たちだって全員が知らないふりをしている。学もなく口も悪い田舎者にだって、人間として最低限守るべきルールぐらいは分かる」
 どうやら彼女の出奔した母親の話ではないようだ。まだ見ぬ香という娘には、他にも何らかの人に話せぬ事情があるらしい。それを知らぬ船戸でさえも、集落の人々の意図するところは痛いほど把握できた。
 そもそもこの時代、過去など一つもございません、なんて人間がどこにいる?
 現に、この俺だって。
「誰もが知っていることを、誰もが知らないふりをすることで、皆が平穏に過ごせるのなら、船戸くん、君だったらどうする?」
 老人の質問に、若者は頷いた。知らないふりをします。
「それが賢明だ。戻れるなら三時には戻って来い。今日はいよいよリリーの登場だ」
 渚はそして、硬貨を若者に放り投げた。それは会話の終わりを意味し、部外者の放逐を意味した。
 
「随分と早かったな」
 宿に戻ってきた船戸に向かって店主は無愛想に呟き、若者はその理由を上手く目の前の男に説明できず、諦め、会釈だけして店内を通り過ぎた。
「あ、船戸くん」二階へ上る旅人に、老人は声をかける。
「前もって言っておく。君から預かったライフルのマガジンは、煙草ケースのウラに隠しておいた」
 船戸は足を止めた。意味が分からない。預かった銃弾のありかを教える時点で、預かった理由はなくなってしまう。
 若者の困惑をよそに、三留は続けた。
「君のライフルは八十九式だよな?」
「ーそうですが」
 陸上自衛隊が制式化した主力小銃、八十九式五.五六ミリは、設計から製造まで愛知県にあるメーカーが担当した純然たる日本製ライフルで、東洋人の体格にも扱いやすい寸法とスペック、豊富なスペア部品、そしておおっぴらには語られないものの各駐屯地保管庫からの横流しや奪略、の当然の帰結として、『混乱の五年』の期間、広く市中に出回った。
「何でも揃うこの伊豆海村のハロッズはな、八十九式用の銃弾もちゃんと扱ってる。俺からのプレゼントとして、煙草ケースに三つばかし五.五六ミリ普通弾のマガジンを加えておく。全て三十発フル装備だ。あとはトランシーバーとイヤホンも置いておく」
 今日のこの村の老人たちは、まるで禅寺の僧侶だ。あらゆる言葉がなぞかけだ。船戸は頭を振った。
 この若者は考えることが苦手だった。考え過ぎた結果起こした一週間前の出来事。ほかに方法はなかったのかと自問する日々。
 これ以上彼は何も思い煩いたくなかったし、何も想像したくなかったし、何も計算したくなかった。
 そして彼はいつもの自分であろうとした。何の悩みもなく何の夢もない、ただへらへらと笑いながら惰性で生きているだけの、パックンである自分に。
「三留さん、クラーコは知らないのにハロッズは知ってるんだ」
「いやしくも四十年以上小売店を経営してきた人間だぞ」
 船戸は部屋に戻り、横になった。
 夢遊病者のように名古屋から移動し、無意識のうちにバスに乗り、偶然辿り着いたこの村は、この遊佐集落は、決して居心地の悪い場所ではない。
 ただ、ちょっと、疲れた。
 一切の思考を停止し心身を徹底的にオーバーホールするつもりでいたのに、この三日間の俺は何だ。多くの老人たちと知り合い、寅さんに涙し、宿主と酒を酌み交わし、天ぷらを揚げ、バイクを運転し、今日は職まで得た。決算期の経理課員のように動き続けている。
 少し休むべきだろう。
 船戸は知らず知らずのうちに寝入ってしまった。
 
 正午過ぎ、三留は娘を迎えに行った。バスは定時から二分遅れでやってきた。
 バス停では誰も下車しなかった。
 バスは行ってしまった。
 
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