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「伊豆海村後日譚」(2)

 【西暦二〇三〇年・静岡県伊豆海村】
 
 ご他聞に漏れず、その村もまた人口の大半が、次に同じ干支が回って来る頃にはこの世から消え失せているような状況下にあった。
 死に逝く運命を粛々と受容し、自治体としては特別に手を打たない。それが数年前の村議会で既に決定されていた事柄だった。ウラジオストクから朝鮮半島にかかる一帯より続々と漂流してくる難民の受け入れを拒んだ、いわゆる「拒否派」に属し、唯一の産業であった船舶修理工場の職員平均年齢は七十を超えていた。
 住民税を払う余裕も意思も大多数の村民にはなく、財政再生団体指定間際の自治体はそれに対して図書館を始めとする公共施設一切の閉鎖ー解体するカネはなかったーで応じ、双方ともに不満の声を上げることもない。
 下りの木炭バスは一日一便、乗る者も降りる者もない集落唯一のバス停を経由し、更に奥深い山の彼方へと消えてゆく。
 二〇二六年の冬がピークだった全国的な治安の悪化は、未だ交通機関の運行にも暗い影を落している。岩手県のある町で、予定時刻を過ぎても帰着しない一両編成のディーゼル客車が途中の無人駅で、運賃箱に入った雀の涙ほどの現金のために惨殺された運転手ともども発見された未解決事件。それを大義名分に続々と非採算路線の一部または全面廃止を進めていったJRに便乗するかのように、多くのバス路線も消滅の憂き目に遭ったが、庶民派と自らを定義していた老ニュースキャスターがテレビカメラに向かって大騒ぎしたほどには混乱も生じなかった。一時は初乗り運賃が二十ドルにまで膨れ上がった鉄路やバスを日常的に利用できる者など、この国には既に多くは残っていなかった。
 最近は交通事情も大幅に改善しつつあるが、一度絶えた火を再び灯す気力の在り処は殆どの地方で深海に沈んだ梵鐘のように見失われたままで、曲がりなりにも時刻表どおりにバスが動いているその路線はまだマシな部類と言えた。たとえトラックの荷台に粗末なベンチを置いただけの座席に、冬には吹きすさぶ雪が堆積し、泥にまみれたその床を誰も掃除することがない車輌であろうとも。
 そんな沿線の一角を成す、静岡県賀茂郡伊豆海村、草履集落。
 バスをただの鉄屑として大地に放棄せざるを得ないほどに無秩序な場所でもなく、一日二往復以上の運行を必要とするほど栄えてもいない、当時我が国に無数に存在した村落の典型例。
 上る朝日を愛でる者はおらず、沈む夕日を眺める者もいない。星降る夜空も陰鬱な雨雲も、春の嵐も夏の暑さも秋の収穫も冬の霜柱も、既に住民の関心事ではないかのようだ。
 日中は外を出歩き、稀にすれ違う者がいれば挨拶を交わすようになった住民たちも、陽が落ちた後は暗い家の中で、時が過ぎ行くのをただひたすら待ち続けている。
 音を立てることもなく、ただ、じっと。
 
 その年の五月、一人の若い男がその集落のバス停に降り立った。
 バス停横のかつて漁協があった鉄筋コンクリート二階建ての建物は、所有者が近くの崖から駿河湾に身を投げた後は取り壊す費用も機会も失われたまま廃墟と化し、道を挟んだ向かいには錆びたシャッターが前衛芸術のように並んだかつての商店群があるだけだ。
 男は道を渡り、一番手前にあった店―シャッターを上げていた唯一の商店―に入った。
『欲しいものは何でも揃うコンビニエンスストア 三留』
 大手のフランチャイズではない。そのようなコンビニはもう日本には存在しない。徹底した在庫管理と人件費の抑制によって一店舗当たりの薄利をマクロ的に積み上げ本社の営業利益とする流通界のガリバーたちにとって、もはやここは黄金の国ではなかった。その半世紀以上前、かつてどの町村にもあった米屋や酒屋がオセロの駒をひっくり返すように同じ看板、同じ色、同じ品揃えに同じ接客言葉に転じて増殖を重ね、やがてその親玉が統合、倒産、国内撤退という順で揃って舞台裏へと消えていく過程を経て、その所属店舗の経営者たちはおなじみの看板を外し、決まりきった制服を脱ぎ、再び個人商店への道を歩き始めていた。
「こんにちは」窓ガラスが割れ、名目上の存在でしかなくなったドアを開け、男は無人の店内に声をかけた。
 店の奥から禿げた老人が出てくる。両手にはライフル銃が握りしめられている。
「何の用だ」銃口は若者へと真っ直ぐに向けられた。
 若者は口を左右いっぱいに広げて白い歯を剥き出しにしているが、その両の眼球はぴくりとも動かない。本人が自覚しているかどうかはともかく、マネキン人形のようなその笑顔に猜疑心を掻き立てられたコンビニ店主の反応は、この時代誰からも責められるものではなかった。
「何の用って、ここはコンビニでしょ?食い物を買いたいんですよ。パンでも缶詰でも」
 老人は構えたライフルを下に向け、それでも若者を睨み据えたまま、店内に並ぶ棚へと顎をしゃくった。「支払は米ドルか人民元か円か」
 若者は改めて破顔する。へえ、静岡では未だに円が使えるんですか?
「茶飲み話がしたいんならよそへ行け」
「おっかねえなあ、旦那さん。ドルで払いますよ」
「ノートだったらこの場でおまえを撃つ。一枚ずつゆっくり取り出して俺に見せろ」
 朝鮮民主主義人民共和国とその隣国、かつての「満海国」が前世紀から競い合うようにして生産していた偽ドル札、いわゆるノートはその五年前、ロシアから極東にかけて広範囲に散らばった亡命者と足並みを揃えるように、一気に市場に出回った。ただでさえ満海国の内紛に端を発する世界的な経済恐慌によって暴落していた米ドルの価値は、渦潮に巻き込まれたボートのように一旦は沈んだが、キャッシュレス決済の割合自体が既に先進国では九十パーセント程度を占めていたその時代、「将軍様」の取り巻きたちが期待していたほどの混乱は生じなかった。
 そもそもアメリカはその頃には既に「世界の警察」たる役割を放棄し、同盟諸国に派遣していた巨大な軍を撤退させ、あらゆる自由貿易協定を反故にし、極端なブロック経済を敷いていた。EUは実質的に壊滅し、ドイツマルクの華々しい復活と共にユーロは消え失せた。欧州各地で初めはこっそりと、やがて堂々とヒトラーの肖像画がプリントされたTシャツが売られるようになり、旧EU圏内ではポルトガルを除く全ての国で移民排斥を公約に掲げた政党が与党となって久しく、中東からアフリカにおよぶ地域ではコプト教徒、クルド人といった少数派コミュニティーへの襲撃と、それに対するテロ活動が頻発し、国境線は鉄条網で分断された。
 同じ時期、世界の基軸通貨にまでのし上がったのが人民元だった。他のあらゆる民族と違い、中国人はどこに住もうとも永遠に中国人であることをやめない。彼らは土と水がある場所ならどこにでも居を構え、共同体を作り、道路を舗装し中華料理屋と貴金属店を手始めに町を建設し、コマネズミのように働き、せっせと稼いでせっせと人民元へと換金し、地下銀行を通じてそれをせっせと先祖の骨が眠る国に送り続けた。
 多くの紙幣が自国以外での価値を失っていくのを尻目に、人民元だけが一人勝ちの様相を呈し始め、それに比例するかのように国際社会における中国共産党の発言権も増していったが、スリランカで親中政権が転覆されたことを契機として、これ以上吊り目の小男どもに郷土を蹂躙されたくないという一心だけで結びついた各国の中央銀行が、自国の通貨を更に下げてまでこぞってドル買いへと転調し、ようやく人民元と米ドルが一定のパワーバランスを保ちながらハードカレンシーの両横綱として落ち着いた、というのがまさに、若者が伊豆半島にある貧村のコンビニでポケットに手を突っ込んでいるその時に世界を覆っていた為替事情だった。
 若者は一ドル札をゆっくり、カウンターに出した。コンビニの店主は男から視線を外すことなくそれを手にし、透かしと紙幣番号を確認し、無言のままそれを返す。「旅行か」
「そんなとこです」
「このご時世に結構な身分だな」
「おじさんだって恵まれてますよ。こうして自分の城もあるんだし」
 禿げた男は首をすくめた。ドアにガラスもねえ城だよ。
「夜の間、誰かが商品を盗みに来ることはないんですか?」
「そんな時期は過ぎた」
 都心のあらゆる建築物、あらゆる通信手段、あらゆる個人情報、あらゆる作動システム、そしてあらゆる生命が破壊された「混乱の五年」初期段階においては、この国は文字通り完全なる無秩序状態にあった。辛うじて居住可能地域が残された平塚市における放火、略奪、傷害および殺人件数発生率はそれまで半世紀近く世界一の犯罪都市と呼ばれたヨハネスブルグの実績に迫る勢いとなり、最盛期における窓ガラスの需要は供給能力の八百倍にまで膨れ上がった。地方都市ではそこまでの混乱は生じなかったが、それとて数値化すればコンマ以下の程度の差でしかなかった。
 それでもいつの頃からか、そうした騒乱は自然と収斂されていった。どうせ死ぬのだ、それも近いうちに、という諦観を他者への攻撃に転じさせたところで、結果的にそれは自分自身の死期をも早める効果をもたらすものでしかないことを、人々は数多のトラブルを通して経験として学習し、どのみち誰かを憎んでも放っておけば俺と同様にそいつも直ぐにくたばる、という歪んだ連帯感が、敵意と自己保身で塗りたくられたこの世界に新たな色を染め始めた。
 傷害以上の重犯罪数も激減し、むしろ今こそがこの国の有史以来最も穏やかな時期の一つとする者もいたが、それでも人々の間に残ったある感情は、膵臓に巣食う悪性腫瘍のように、それぞれの体の最深部に居座りながら増殖していった。
 相互不信。
 ほぼ例外なく家族親戚の誰かが誰かに殺され、傷つけられた過去を持つようになった世界では、常に携帯すべきは電話でも財布でもなく、まず武器だった。事実、今まさに静岡の限界集落にある商店でカウンターを挟んで向かい合う二人の男も、一人は手に、もう一人は背中に、それぞれライフルを持っている。
 若者は菓子パン二つと牛乳を棚から取り、それをカウンターに置いた。
「三ドル四十五セントだ」
 旅人は金を払いながら尋ねた。ここら辺に泊まるところはありますかね?
袋に商品を詰めていた店主の手が止まる。「こんな場所で何を見て回る」
「別に何も。ただ静かな場所でちょっと一休みしたいんですよ」
「静かな場所なら、別にこの村に限らず日本中がそうだ」
「ここが気に入ったんで」
 老人は若者を正面から見つめた。「何を企んでる?」
 若者が、もはやそれが生まれついての造作であったかのような満面の笑みを変化させることなく応えた。
「旦那さん、俺には何かを企むような知恵はないですよ」
「あんた、まさか外省人か」
「それ、差別用語ですよ」
「知ったことか」
 前世紀半ば、中国大陸で政権の覇を巡って二つの政党が内戦状態へと突入し、蒋介石率いる敗者は台湾へと逃れた。その南国の島に元から住んでいた土着民を総じて「本省人」と呼び、対してそこに押しかける形となった蒋一派は「外省人」と呼ばれた。両者の軋轢はその後一世紀近くに渡って途切れることなく様々な衝突、迫害、それが導く社会格差を引き起こし、今なおそれは静かに続いている。
 この「本省人」、「外省人」の呼称は、そのまま日本でも使われることとなり、長きに渡って巧妙に隠されてきた外国籍者への排斥の気配が再び頭をもたげるようになったことを重く見た政府は、こうした区分けによる社会的な制約や、カテゴライズそのものを刑事罰の対象とする法律を改めて制定したが、そのような法律を恐れる者の存在など、その政府からして信じてはいなかった。
「俺は本省人ですよ」
「身分証明書を見せろ」
 若者は尻ポケットから運転免許証を取り出した。三年前に失効していたが、それを気にする者はいない。「船戸珠樹」の名がそこに記されている。本籍地は神奈川県小田原市。生年月日から逆算した年齢は二十四歳。
 そうした身分証明書に、もちろん本省人外省人の記載欄などない。しかし特に関西の各種法人が前世紀から連綿と秘匿してきた、苗字や本籍地等の個人情報からその者の血筋を推定するマニュアルがおおっぴらに市場に出回るようになった今、こんな廃墟のような商店のカウンターにもそれは堂々と置かれていた。店主は船戸に両手をポケットに収めたままにしておくよう告げ、運転免許証とマニュアルを交互に眺め、無言のまま免許証を持ち主に返した。
「一軒、宿泊施設がある。十年近く泊まる者もいなかったから、畳も半分腐っているような状態だが」
「雨露がしのげれば充分です」
「一泊八ドル、素泊まりのみ」
 船戸は頷いた。了解です、宿はここから遠いんですか。
 禿げた男は天井に指を向けた。「ここの二階だ。表に何でも揃うと書いてあるだろう」
 若者はしばらく呆然と口を開け、やがてその場でしゃがみこんで笑い転げた。多分に芝居がかった動作のようにも見えた。「旦那さんも人が悪いね」
「俺はまだ宿泊を許可した覚えはない」
「お願いしますよ。夜、飲みましょう。俺がおごりますから」
 そして若者は、世帯数十三、人口二十四人の静岡県賀茂郡伊豆海村字草履の、かりそめの住民としての一歩を踏み出した。

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