見出し画像

「伊豆海村後日譚」(31)

 ***
 
 停留所ポールから、すっかり色褪せた「草履」の文字。
 そのすぐそばにある曲がり角を望む廃棄された軽トラの裏で、ハン・ガンスが勇気を振り絞って上司の分析に唱えた異議とほぼ同内容の質問を、いみじくもほぼ同時刻に、三留香は船戸珠樹に対して発した。
「船戸くんは何で逃げなかったの?逃げて土肥の警察にでも駆け込めたでしょうに」
「あなたに会うまで何処に誰がいるか正確には分からなかったから」
「香、でいいよ。船戸くんの方が年上でしょ?それだけが理由なの?新井を撃った時にでもチャンスはあったでしょ?」
「俺だけ助かるのは嫌だった」
「あなたは旅行者でしょ。草履の人間に義理でもあるの?」
 男は微笑んだまま頷いた。
「奴らがこの店に来た時、俺はそこのコンビニの二階で眠ってた」
「私もその時いたのよ」
「知らなかったよ。三留さんは俺のことを一切口にせず、敢えて興奮したふりをして大声で叫んで、できる限り俺に情報を伝えてくれた。本当は怖かったと思う。それでも三留さんはそうしてくれた。それは俺を逃がすためというより、俺が反撃の狼煙を上げるのを期待してのことだったと判断した」
「人が良すぎるわよ」
「俺は死に場所を探してもいたんだ」
 香は男へと振り向いた。すっかり闇に包まれた森で、月の明かりを反射した男の歯がぼんやりと光っている。
「神様がそのチャンスを与えてくれたと思った。今も死ぬのは怖くない」
「ー死に場所?」
「今話すと長くなる。香さん、武器は持ってるの?」
「分かりやすく話題を変えたわね。まあいいわ。くるぶしにナイフ、胸ポケットにコルト」
「コルトで満海の兵士と撃ち合うつもり?」
「今更調達できないわよ。今ある材料で戦わなくちゃ」
「コンビニの中に、布団袋がある」
「布団袋?あのケチな店に?いつからあそこはコストコ伊豆海店になったの?」
 違うよ、男は手を振って更に笑った。
「新井が午後、一人で店に来たんだ。集落の各家を回って、武器や金目のものを回収していたんだと思う。でかい布団袋を持っていたからね。そこに武器が入っているかも知れない」
 店までは数歩の距離だ。現に今も彼らの視界に、「欲しいものは何でも揃う」の看板が月光に照らされて浮かび上がっている。
「ちょっと行ってくる」
「今はよしておいた方がいいよ。もうすぐ奴らはここを通るかも知れない。袋の中に何も入ってないことだってー」
 既に香は走り出し、店へと飛び込んでいた。
 中はめちゃくちゃだった。棚が倒れ商品が散乱し、それでも暗反応をずっと続けていた眼はやがて布団袋を見つけた。中身を探る。
 自分は大丈夫だと思っていても、手の震えは隠しようがない。高校生の時、この体への遠慮仮借ない触手を月謝代わりに逮捕術を教えてくれた警官の言葉を、不意に思い出す。彼は押収した銃器を闇に流しては小遣いを稼ぐ、その他大勢の官憲の一人だったが、函南の深い森の中で、香に何度か実弾発射の機会も提供してくれた。それは特別料金だったが、自分が何で対価を支払ったかは今更思い出したくもない。
「プロの殺し屋なんてのは、実際ドラマや漫画だけの話だ。ヤクザのヒットマンなんてのも九割方、借金で首が回らなくなった野郎が清算をエサに組員から銃を渡されました、てのが現実の相場だ。プロとアマの差なんて突き詰めれば一つだけだ。いざという時に何の衒いもなく銃をぶっ放せるのがプロで、躊躇するのがアマ。それだけの違いだ」
「銃の腕前だってあるでしょ?」
 女子高生の女子高生らしい質問に、悪徳警官は背伸びして答えた。短銃の命中率が実際はどれだけ低いか、香ちゃんも既に知ってるだろ?ナイフで刺す方がよほど確実だ。
 もちろん満海というこの世の地獄から脱け出してきたあの連中と、借金苦の結果銃を持たされて暗殺者に仕立てられた男を同一線上に語ることはできない。
 でも、と香は一旦呼吸を整え、無理にでも自らに言い聞かせた。そういう意味なら、私はプロの資格ありだ。いざとなれば、私なら躊躇なく撃てる。
 袋の中を探る手が、いくつもの鉄の冷たさを感じた。船戸の予想は当たっていた。やるじゃん、あいつ。
 限界集落に相応しく、ライフルは殆どが単発式の散弾銃だった。もちろん何もないよりはましだ。でも、他に。
 五月の伊豆、夜になると気温はぐっと下がる。それなのに体からは奇妙なほど汗が噴き出してくる。ないのか、他にないのか。
 やがてまさぐる手がお目当てのものを見つけ出した。
 ウジ。
 その容易な操作性と命中精度の高さから、世界中で広く流通されているイスラエル製の短機関銃。
 キブツへの入植者がアラブ諸国のテロリストからの攻撃に晒されるという状況を想定して開発されたその銃は、つまり素人の使用を前提として設計されており、同機のモデルガンに触れた経験はあった香には、暗闇でも操作が容易な、願ってもない相棒だった。
 松戸から越してきた安田さんあたりが持ち込んだものだろうか。マガジンも装着済みで、本物であることもそれで分かった。五十発ぐらい装填されていれば有難いが、こればかりは運を天に任せるしかない。敵の銃装備は分からないが、こちらは八十九式とウジだ。見劣りはしない。布団袋を店の隅の目立たない場所に移動させ、店を出ようとした彼女の左耳がバイクの爆音を拾った。急いで店の中に戻り唇を噛んだ。
 
 パク・ジョンヒョンとチェ・ヨンナムは、渚のカブを改造した三輪車を二果から草履集落へと疾走させた。草履には五分後に到着し、そこからメインストリートに入る。
 人質たちから、草履から派出所のある一番近い町は土肥だと聞いていた。馴染みのない地名だったが、一本道を北上し十五キロ程度の距離ということだった。北田の家は逆方向となる集落の細い農道を入った南端に位置しており、そこから出発した船戸とかいう糞野郎はその点ハンディを背負っている。しかも50ccのバイクに二人乗りで移動しているのなら、途中で捕捉できるかもしれない。
 
 ***
 
 メインストリートをバイクが近づいてきた。
 本当に来たんだ、奴ら。
 船戸は一度深呼吸して、ライフルを持ち直した。
 相棒となる香は、まだコンビニから出てこない。今更叫んで呼ぶ訳にもいかない。
 八十九式小銃はフルオートに設定してある。
 俺ひとりで戦うしかない。
 まあいい、どうせ最初からそのつもりだった。
 バイクがバス停の横を通り過ぎ、曲がり角でスピードを落としたその時、旅人は引鉄を絞った。タタタタタという音が闇を切り裂き、バイクが転倒した。
 二人の男が地面に放り出される。長年の訓練が心身に刻み付けた行動様式の命ずるまま、後ろに座っていた男が地面を回転しながら、自分たちを襲ってきた火花の方向へと拳銃をぶっ放す。四発。うち一発が軽トラのバックミラーに当たり、鏡を粉々にした。
 ガラスの破片が右眼に突き刺さった船戸は無意識のうちに叫び、背後に倒れた。すぐそこが窪地になっていたことが、結果として彼の命を救った。直後、大規模な花火大会のように軽トラに降り注いだ銃弾は幾つかが貫通したが、穴に落ちた若者を天然のトーチカが防御してくれたのだ。
 暗闇の中にいるというのに、船戸の右眼は青白い光の発散を捉えていた。瞼を閉じれば鏡の破片が眼球を駆けずり回り、眼を開けばズタズタに上皮が傷つき剥き出しになった角膜が、微かな星の光に反応し脳髄に激痛を走らせる。窪地に横たわりながら、彼は全く動けなかった。何も考えられなかった。自分がこれから死ぬのか生き残るのか、そんな基本的な事柄さえ想像もできなかった。
 無事だった左眼からも涙が溢れ出てくる。感情の発露によるものではない。怪我を負った眼球を庇うための生理的作用によるものだった。
 穴の中で倒れた体をゆっくりと伸ばした。風に揺れる木々の葉の音。まるで俺においでおいでしているようだ、夢うつつの意識の中、船戸はぼんやりとそう思った。体が土に溶けてゆく。俺も大地に帰っていくのだろうか。そして彼は、ゆっくりと気を失っていった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?