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“他者への没頭は、それが支援であれ妨害であれ、愛情であれ憎悪であれ、つまるところ自分からの逃避の一手段である。”



『ここは今から倫理です。』という漫画で触れた、アメリカの哲学者エリック・ホッファーの言葉です。

仮に、この言葉の通りであるならば?を、考えたはなし。

この言葉を目にしたその時、ぐさっと身体の中心に突き刺さってしまったような痛みを感じたと同時に、妙に、すとんと腑に落ちた。

私はずっと、わかっていたのだ。没頭も没入も、無我夢中も、熱狂も。それは自我が自己から離れてエンターテインメントに浮遊するための手段だと。すべては眩しく煌めきながらも、“現実逃避的な空想である”という鋭い意味を孕んでいた。

能動的にオタクで在ることは楽しい。エンタメを享受し浸ることは幸せ。それってやっぱり、夢だから、だ。

心底不思議だな、と思うのです。

彼らはきっと、“圧倒的に他者な自分”へ没頭することで夢の煌めきを与えてくれる。私たちに、没頭する喜びを教えてくれる。だけれど彼らにとって、その没頭は逃避であるのか?どこまでいっても果てしない“現実”の連続なのではないか?考えれば考えるほど、こんがらがった。


だけれど。私にとっては逃避が含まれる行為なのです、彼らの存在に没頭するということは。だからこうしてたまに、利己的な自分を見つけては悲しくなる。

それでも彼らは、たった一度、決して長くはない生涯の大部分、短くはない生命の核をそこへ注ぎ、他者な自己へ徹してくれる。

こんなめんどくさい自分も丸ごと愛してゆかなければ、胸を張って「好き」とは言えない。そういう覚悟を抱かせてくれる。こんな解釈も勿論主観で想像だけれど、私はこの“好き”に確かに救われ、生かされている。

矛盾や相違の隔たりを孕みながらそっと視線を交わすようで、本当は双方が一方的なこの関係。こんなにも尊く唯一無二な繋がりはあるものだろうかと、ふとした時に考えます。

私は、彼らに、彼に没頭する自分が好きだ。
彼らへの圧倒的で絶対的な好きが、わたしを私たらしめている。

彼自身のことなんて0.1mmも、0.1gも、わかりやしない。そんなことは重々承知で、彼のことを好きでいる自分だけは心底愛していたいと思うのです。

心地よい心酔は、時に逃避。それでも尚、今もどこかで息をしている彼らの幸せを心底願う。合わない辻褄も矛盾もぜんぶひっくるめて、ファンタジーはファンタジーのまま。どうか、6人に溢れんばかりの幸せを。今日も祈るだけ、それでも全身全霊をかけています。


彼らを思う全てのひとへ、この価値観を押し付けてしまう勝手を承知でたったひとつ。

その“好き”に対して、自覚的であってほしい。

この言葉が好きではなくても、共感に及ばなくても構わない。ただ、自分は彼らのことが好きなのだ、というその気持ちに対して、常に“気付いていてほしい”、そう思います。

苦しいけれど、自分の痛いところをつつきまわすような思考と言葉をやめたくない。こうやって言葉にしてゆく怖さに、負けたくありません。誰のためでもない、自分のための言葉。自己完結な愛情だけれど、私たちは言葉をもっている。

彼らへ対して叫ぶこの好きに、ちゃんと責任をもっていたいな。



殴り書きでごめんね。
今日も彼が、好きだなぁ。


 


都合の良い私の解釈

(下書きより。いつ書いたのかな、これ)



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