#10 1987年&88年の快楽
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小田急線の梅ヶ丘駅•徒歩3分 ブラジリアン柔術ジム スパークルー代表の大川です。
茨城南部で育った自分が高校2年&3年時に1番ハマっていたのは音楽で、レコードを買う事やバンドを組んで演奏する事はもちろん、毎週末都内に通い、音楽スタジオに入るか、ライブハウスとディスコ(死語、当時のクラブ)に行っては飛んだり跳ねたり踊ったりしてました。
音楽スタジオは都内、といっても東京の1番端の面白タウン足立区竹ノ塚にあるスタジオの常連でした。ココには当時OmmyさんというDimensiaというX (後のX-Japan) のベースだったTaijiさんが在籍していたバンドのギタリストがスタッフで常駐していて、長髪、黒T、デニムという当時のステレオタイプなジャパメタ•タイプのバンドマンで、退廃的な見た目(失礼)とは裏腹に、話には付き合ってくれるし、聞けば何でも教えてくれるし、スタジオの深夜パックを割り勘しても安いし持ち込みOKだし、かなり自由にやらせて貰えてたので最高でした。四谷の音楽館とか他にも深夜パックは行ったけど、竹ノ塚は安いし使いやすいし最高だった笑
ライブハウスも一時期はほぼ毎週行ってました。良く行っていたのは神楽坂にあったExplosion、西新宿のLoft、目黒の鹿鳴館。渋谷の屋根裏とかエッグマン、ラ・ママとか新宿のAntiknockとか下北とか原宿とか代々木にも色々あったし行ってたんだろうけど、当時は音楽ジャンルで明確に棲み分けされていたので、あまり記憶には残ってないです。
あと好きだったのはディスコ!これは本当に楽しかった笑 当時、歌舞伎町のコマビル界隈にディスコが何軒かあり、六本木や渋谷あたりにあったイケてるバブリーな箱とは違って、田舎の高校生でもドレスコード緩めで入れるのが新宿のハコだった笑 とは言っても、サービスは良く、ビュッフェもそれなりだったし掛かっていた音楽も良かった記憶しかないです(渋谷、六本木界隈のオシャレ文化は自分がガキ過ぎて敷居が高く当時はまだ行ってなかった)
地元にもJOYPACKという茨城中の若者が集まるという熱いディスコがつくば市の中心にあったがヤンキー率が高くて行かなかった(ヤンチャな友達は結構回りにいたけど、自分は学ランボンタンやリーゼントとか全く興味が沸かなかった。なので大音量の改造車で箱乗りして走り回ってナンパしに行くとか意味不明過ぎて、、ディスコの大音量で良い音楽が聴きたかっただけなので笑)
バイトは高校1年はマクドナルド、2年では新聞配達、3年では7イレブンでやってました。
高1のマックは女の子もいるしハンバーガー食べれるし最高なんだけど、油塗れになるのがキツかったのと、街の中心部にあるので誰かに見られて学校にチクラれる(当時はバイト禁止で見つかったら停学でした)危険性があって止めました。
高2の新聞配達は地味だしキツいんだけど、200部弱を配って割と高収入かつチャリなんで団地の昇り降りとかで足腰の体力もつくし、早朝なんで人目に全く付かないのが良かったです。ただ強い雨とか雪降ってる日とかは地獄👿で朝から極寒の中、勢いでやっつけて仮眠取って学校に行くよう追い立てられて家から出される感じだったので、コンビニ寄るともう学校行きたくなくなって友達の家行ってサボってました笑 なので高校2年時は出席日数が足りずに留年しそうになったんですけど笑
高3のセブンイレブンが一番楽しかったです。2コ上のヤンキー女性でNちゃんという先輩がいて、フリーターやりながら改造した軽自動車で店に乗り付け、茶髪&厚化粧&タバコで見た目は派手で怖いんだけど、仕事は優秀かつ店長の信頼が厚いエース的存在で接客方法、掃除、レジ打ち、棚卸し、店長のご機嫌の取り方&本部の人への挨拶など目上の人との付き合い方、サボり方まで、1から10まで全て教えて貰いました。また自分は2コ上に姉がいるのですが、真面目な性格の姉とは正反対な自由奔放さなのに仕事は黙ってキッチリやって売上で結果も叩き出す!みたいな感じが格好良すぎて。。姐さん、あの時はマジでお世話になりました🙏感謝してます(高校卒業して地元出ちゃったので不明ですが、先輩元気ですかね?)
高校時代の1年2年は自分の中では学校が嫌いすぎて荒れ果てた暗黒期でしたが、学外ではバイトでお金を稼ぐ楽しさも覚えられたし、3年は学校内にも友達が出来てそれなりに楽しかったし、学校行きさえすればどうにかなりそうだしバイトは楽しいし、今考えるとまあ良い経験させて貰ったと思います。OSS
#11に続く >>>