見出し画像

歌舞伎町ホスト刺傷事件現場で救助もせず動画を撮り続ける群衆はアホなのか?

 先日歌舞伎町でホストがカッターナイフで刺された事件現場に遭遇し、救護をした医大卒の経営者さんのX(元Twitter)の投稿がバズっています。

 日本人の民度の低さを嘆くその内容は、人が命を落としそうな現場で協力をしようともせず、スマホで動画を撮り続ける群衆に対する失望か感じられます。

 私自身が日頃感じながらも、そうであって欲しくないと願っていることなので、この投稿のやるせない気持ちに共感する部分が多です。

 事件は11月5日の未明に歌舞伎町でホスト、ホストに貢いでいた女性の喧嘩から、女性がホスをカッターナイフで刺したという事件です

当時の状況を記したXの投稿をそのまま引用させていただきます、


歌舞伎町ホスト障害事件状況投稿



『民度の低さが一線を超えている』と感じました。
あった出来事をまとめます。
===
①私が被害者の男性を視認した時点で、
・救急車を呼ぶこと(すでに他の方もお願いしてた)
・AEDを持ってきてもらうこと
・救急グッズが近くのお店にあるか探してもらうことを周りの方にお願いしました。

30〜40人は周りにいましたが、救急車すら誰も呼ぼうとせず、ひたすら無言でスマホのカメラをこちらに向けてました。勇気ある男性がやっと救急車を呼んでくれましたが、AEDを持ってきてくれる人は最後までいませんでした。

②どんどん人だかりが出来て、ひたすら皆なカメラをこちらに向けてきました。止血をしていたホストの方が、「撮るなよ!」って叫んでも全く効果がなく、怖いくらいにカメラをこちらに無言で向けて立ち止まってました。

AEDを持ってくる要請にすら応じずひたすらカメラを向けるその姿に文化的な恐怖を感じました。

③警察が到着しましたが、人だかりのせいでパトカーが来るまでかなり時間がかかっていました。

救急隊の時もそうです。確実に野次馬の方々は邪魔をしていました。

④警察が到着してしばらくして、黄色いテープが貼られ、一般の方が黄色いテープの外側に出されました。私は警察の指示で内側にいました。何人かはテープの中に入り更に撮影を続けようとていました。

救急隊が区役所通りに被害者男性を運ぼうとしている時明らかに邪魔になっていました。
====
流石にやばくないですかね。
・被害者男性の隣にいた女性数名
・止血をしていたホストの男性
・途中で応急処置を手伝おうと駆け寄ってくれた男性2〜3人
・カッターを取り上げた男性
・加害者女性を引きはがした男性数名

以外はひたすらスマホをこちらに向けていました。

なぜすぐAEDを持ってきてくれないんですか?
なぜ、1人を除いて手で持っているスマホですぐに110と119をしないんでしょうか?

現場で撮った動画をTwitterやストーリーに載せて稼ぐイイネ数や、知り合いに直接見せて「お前現場にいたの!?」と驚かれて満たされるその承認欲求は、本当に大事なものなのでしょうか?虎)

@aotech6 さんの投稿から引用

投稿されたXはこちら

白杖を持った僕は思ったよりも薄情な世間を感じています

 投稿を読むと、投稿者が感じた絶望感が伝わってきます。

 僕自身が、弱視となって白杖を持つようになってから、思った以上に世間が目の前の出来事に無関心であることに驚きました。

 信号の色がわからず、白杖を持ったまま佇む私に対して声をかける人がほとんどいない 、といった経験を毎日しています。

 その一方で、自分が今までどれだけ世間に無関心であったかをも感じるようになりました。

 白杖をもつ人に、車椅子で移動している人に、目が見えていた頃の自分が生涯でどれだけ声をかけたことがあったのでしょうか?

 自分は正義感が強いタイプだと思っていましたが、この年になるまで献血の経験もありませんでした。ドナーカードへの意思表示を考えたこともありませんでした。

色んなことに無関心で、献血車の存在も、返納した運転免許証の裏側のドナー記載欄も見えていなかったのです。

 カッターナイフで刺さされた光景も、交差点で佇む目の不自由な人も、スクリーン越しの映像なのです。それは世界で勃発している戦争画像を漠然と眺めている自分の姿なのだと思うのです。

いつから日本人は無関心な民族になったのか


豊田商事会長惨殺事件

 最近は日本人は世間に無関心になった、昔はそんなことはなかったとの声を聞きます。


 大勢のマスコミ観衆の前で豊田商事の元会長が惨殺されるという事件があり、全国に生放送されました。今から38年も前の話です、

 咄嗟のことで、まさかこれから目の前で殺人事件が起こるとは思っていなかったのでしょうが、窓の格子柵を破壊して、ガラス窓を破って部屋に侵入する犯人を止めるものは一人もいませんでした。

 返り血を浴び、血だらけの凶器を持って部屋から出てきた犯人にインタビューを試みるレポーター

  惨殺された元会長が多くの人を騙した詐欺師であったとしても、こんなことがあって良いのが、日本人のモラルは一体なんなんだろう?成人したばかりの僕はそう感じたのを覚えています。

キャサリン殺人事件

 マーケティングを行う上でバイブル的な書籍にアリゾナ州立大学ロバート・チャルディーニ名誉教授作の「影響力の武器」という本があります。

 人間行動学の名著ですが、この中で1964年、ニュヨークで起きたキャサリン事件を例に集団心理学について解説されています。

 あるアパートの前で、キャサリンという若い女性が暴漢に襲われ、その犯行は30分以上にわたっておこなわれ殺害されました。

 アパートには30人以上の住人が住んでおり、悲鳴を聞いた住人のほとんどが、犯行に気づき各部屋の窓から現場を目撃していたことが判明しました。

 最終的にキャサリンは殺害をされてしまうのですが、住人たちは、この犯行を止めようとした者も、警察に通報した者も、一人もいなかったのです。

 なぜ30人もの人が見ているのに殺人が行われたのか、事件そのものよりも、誰も止めようとしなかった事実が当時センセーショナルに報道されたそうです。

 結論は、30人もの人が見ていた「のに」ではなく、30人もの人が見ていた「ので」が原因とされています。

 誰かが通報する、誰かが助けに入る、集団の中の一人であることでその事件を自分事として捉えようとしない、責任回避をしてしまうのが人の心理にはあると説明されています。

 豊田商事会長宅前の大勢のマスコミ関係者もアパートの住人も、歌舞伎町で負傷者を動画で撮り続ける集団と同じ構図のように思えます。

人を変えることはできない、変えることができるのは自分だけである


 投稿者の見た群衆は、どこまでも無関心で、自分のことしか考えていない。この事態を賢明に対処しようとすればするほど、目の間の群衆が馬鹿の集まりに見えてしまうでしょう。

 日本人は本当にクズばかりなのだろうか、ため息をつきたくなるのもうなづけますし、共感します。

 戦争は良くないこと、悲惨でしかないことを知りながら、未だそれを止めることができないのが愚かな人類の正体です。

 だけど、投稿の中には、投稿者をはじめ、被害者の止血をしたり、撮影を止めさせようと叫んだり、加害者からカッターナイフを奪い取ったりした人たちがいたのも事実です。

 愚かな人類を変えることはできないのかもしれません、人が唯一自分の力で誰かを変えることをできるとしたら、それは自分自身だけです。

 この投稿を読みながら、虚しさに溺れ沈むことなく、傍観者の波の一部になることなく、変えることのできるたった一人の人間を変えてゆきたい。

改めてそう感じさせる投稿でした


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?