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旅の名残り!僕の生きた60年が歴史の小さな一小節と感じた5日間!

3月末、台湾へ4泊5日の旅行をしてきた。コロナ後初めての、そして障害手帳を手にしても初めての海外旅行である。

十分な視力がない中での海外旅行は、不安でもあった。100%妻におんぶに抱っこの状態ではあるが、結果は、とても学びのある旅であった。

還暦を前に、見えない目で見て、体験した異国で、人生を振り返る良い時間を過ごせたと思う。


台湾と日本の親密さの違い

台湾のことを知らない日本人

「なぜ、台湾には日本の情報があふれているのに、日本人は台湾のことを知らないのですか?」

新井一二三氏は、日本人でありながら中国語でコラムを書き続ける作家、コラムにストである。出版書籍は30冊以上に及び、中国語圏内で多くの愛読者を持っている。

そんな新井氏が、日本人向けに、日本語で書かれた著『台湾物語(麗しの島)』の中で、台湾からの留学生からのこのような質問に困ったという一文が上記の言葉だ。

確かに、台湾について知っているようで何も知らないと思う。

台湾海峡有事が懸念されている。先日は中国寄りの国民党と、台湾主体色の強い民進党との間で総統選が行われた。というのは知っている。

あるいは、熊本に工場を作った世界最大の半導体企業T S M Cを有しており、シャープを買収した鴻海グループという製造業企業もある国だという断片的な知識もある。

しかし、国とはいうものの、国連からは国とは認められておらず、企業間でも、人民間でも我が国とは友好的なのに、我が国とは正式な国交は結ばれていない。

日本を含め、多くの国が台湾を国として認めていない理由は、教科書レベルで習ったが、その歴史背景についてはすっかり忘却の彼方だという人は多いだろう。

親日家が多い台湾の人々

では、なぜ台湾には日本の情報が溢れていて、親日家が多いと言われるのだろうか?

まず、台湾人がいかに日本に対しての関心が高いのかを示すかを、台湾からの訪日客で測ってみる。

コロナ直前の2019年に訪日した台湾人の数は490万人であった。人口2360万人から換算すると、なんと年間に台湾国民の5人に1人が日本を訪問した計算になる。驚くべき数字だ。

因みにこの年、人口14億人の中国からの訪日客は950万人であった。

2023年では、中国からの訪日客は270万人に対して、台湾からは420万人まで回復している、

今、訪日外国人から聞こえてくる中国語の多くは、台湾からの観光客によるものであることがわかる。

中国後をしゃべっていても、共産国家、中華人民共和国に住む人と、民主制の中華民国に住む人とは違うのである。

そんな台湾を、近年で日本人が強く意識したのは13年前の東日本大震災に対して220億もの義援金を贈ってくれたことだろう。

それまでは、2001年公開の「千と千尋の神隠し」の舞台とされる九份のある国としてくらいの知識しかなかった人が多いはずだ。

台湾といえば、第二次世界大戦で、日本が敗戦国となる以前の50年間、台湾は日本の統治下にあった。そして、台湾の公用語として、日本語が強要されてきた歴史がある。

歴史認識としては、知ってはいた。酷い話ではあるが、世界史の中では、そういったことが公然と行われる。今も、中国がチベットで、ロシアがクリミアで行っている。

そういった歴史を持ちながら、台湾の人びとの日本に対する感情がネガティブなものだけではなく、親愛をもってもらえる一面があるのは、一定の秩序のあった日本の統治と、その後の台湾を支配した同胞である国民党により実施された、戒厳令下における独裁政権の陰惨さにあるといわれている。

台湾の近代史と自分の生きた60年

我々が生まれる前の台湾

還暦を迎える直前の旅行として、選んだ台湾。自分の生きてきたこの60年に台湾はどんな時代であったのかを比較してみたい。

日本統治下時代の台湾

1995年、日清戦争に勝利した日本に対して清は日本に台湾を割譲した。1995年から2045年までの50年間、日本の義務教育制度が施行され、台湾の公用語も日本語となった。

この時期に台湾でまれ育った子供たち、つまり、現在の50代から70代の我々の祖父母にあたる世代の人たちは日本人も台湾人も、日本人として、日本語で教育を受けたことになる。

日本語を公用語として話していた祖父母世代は、やがて成人して、結婚をし、生まれた子供たち、つまり我々の父母の世代も、日本語を話す家庭で、幼少もしくは、成人するあたりまでの分布で、日本語を母語として育った。

我々同世代の台湾人は、少なからず日本の言葉や文化の中で育った記憶のある親たちに育てられたことになる。

日本統治下にあった台湾は、支配する日本と支配される台湾としての差別はあっただろうが、この間に近代化も進み、統治下状態での秩序は保たれていたと伝わる。

こののちに、台湾を支配する蒋介石率いる国民党による独裁と弾圧、恐怖政治が始まる。

南京国民政府〜戒厳令統治時代

日本人に変わり、台湾を統治した蒋介石と共に中華民国本土から台湾へ移り住んだ外省人による、台湾を本土とする本省人支配が行われることになった。

当時の中華民国首席の蒋介石は、台湾省を管轄する機関として、12,000人からなる国民軍と、200人の官使を台湾に派遣し、台湾省行政長官省を設立した。

日本の植民地支配から復興した台湾の人たちは、本国からのこれらの部隊や官使を当初は歓迎ムードで迎えた。

しかし、新管轄政府は、中華民国本土から来た人たちで固められ、現地台湾の人々を支配するようになる。

これ以降、中華民国を本土を故郷として台湾へ渡ってきた外省人と、台湾を故郷とすをる本省人との分断が始まった。

外省人による横暴な振る舞いや、汚職が蔓延する。さらに、外省人兵士による、台湾人に対する強盗、婦女暴行が頻発し、台湾の治安は一気に悪化したようだ。

これに対して、反撥した本省人たちが蜂起し、二・二八事件が勃発したが、蒋介石は中華民国本土より、応援部隊を送り込み、圧倒的武力により、反乱を鎮圧した。

この時殺害された台湾人は3万人とも言われている。

さらに、この直後、中華民国本土では、蒋介石率いる国民党と、毛沢東率いる共産党との内戦が激化、国民党は敗北をした。

中華民国から中華人民共和国となった本土から、蒋介石率いる150万人もの支配下軍人やその家族が再起を図るため、台湾に逃れてくる。

600万人の本省人の住む台湾に、150万人が間借りをしにやってきて、支配するとういう構図になる。

台湾はその後38年間、蒋介石とその息子蒋経国による、戒厳令体制での統治が行われ、間借り住人である外省人の大半は永住することとなる。

戒厳令下の台湾では、白色テロと呼ばれえる政府による、反体制者への徹底的な弾圧が行われてきた。密告制度や、相互監視制度などで、数万人もの人が投獄され、処刑をされる時代であった。

これは蒋経国が没し、戒厳令が解かれる1967年までつづく。

1987年、戒厳令が解かれた年は、私は23歳であった。大学を卒業し社会人1年目の年である。

台湾に住む同年代の人々は、生まれ、育ち、青春時代をこのような環境で暮らしていたのだ。外省人の家庭で育ったのか、本省人の家庭で育ったのかでは、生き方や考え方は全く違ったのだろうが、日本で安穏と暮らしていた自分には、隔世の感があるのは間違いのないことだ。

4日間の台北滞在で感じること

今回の滞在は、九份での一泊を除いて、台北市内に滞在した。

台北は、近代化した都市で東京と変わらぬ街なみである。縦横無尽に地下鉄が張り巡らされており、駅や地下街は清潔で、どこも空調が行き渡り快適であった。

中心街は近代的な建築物やビルが並ぶ。とりわけ、象徴的である台北101か聳え立つ姿は圧巻である。

台湾の経済の近代化は、戒厳令下の時代から、反共産主義として中国を牽制するアメリカとは密接であり、特にベトナム戦争時の物資の拠点として役割をになっており発展をした。

また、外省人を中心としたエリート層の子息たちは、アメリカへの留学を積極的に行い、電子部品関係の優れた研究者の排出、今日にわたる関連企業の成長の礎も築いた。

アップル、マイクロソフトを始め米国の電子機器の部品の大半を、台湾の企業が製造提供を行うほか、世界の半導体のシェアも高い。

大企業が連なる大都会でありながら、亜熱帯の地らしく緑も多い。そしてメイン通りを外れると、昔ながらの屋台や飲食店が並ぶ路地があこちに存在し、八角などの香辛料の匂いと、厨房と下水を繋ぐグリストラップの臭いが混じった空気が漂っている。

今回の旅の目的も食べ歩きではあったが、お粥、豆腐粥、牛肉麺、小籠包、棒餃子、ワンタンメン、その他中華料理とスイーツなど食いだおれて、最終日の夜は食べきれずにパスしてしまった。

やはり、還暦ともなると胃袋も若くはないと痛感をした次第である。

少し、郊外を歩くと、中華圏内らしい建物が並ぶ風景が、異国情緒を感じると妻は言うのだが、残念ながらその風情は目の不自由な僕には認識できないのを残念に思う。

中正紀念堂と平和公園の異質

最も記憶に残るのは、市内の中心にある広大な敷地にある中正紀念堂を有する広大な公園の存在だった。

中世とは、蒋介石を指し、大型の中世記堂に座り、台湾を見下ろす特大の蒋介石像と、その目に広がる自由広場の広さは、民主化してなお、権力を象徴しつづける異様さを感じる。

観光名物となっている、銅像の両脇に立つピクリともしない儀仗隊の立ち姿と、1時間ごとに行われる交代式にも様々な思いが交差した。

台湾で、生きた60年であったなら、この光景をどうとらえていたのだろうか。

60年という年月は、歴史上では小さな1小節である。台湾では戒厳令が解かれて38年、子供たちや、その親の世代も、すでに厳しく陰惨であった時代を、僕たち旅行者と同じように知らない。

一方で、僕らとおなじ時代を生きた人たちが、この厳しい時代に立ち上げた企業が、我々の祖父母の時代に立ち上げ、世界を席巻した日本企業を買収した。シャープを買収した「鴻海」の創業は1973年であり創業50年。

あるいは日本国内に大型の投資を行い、日本経済の復興の一翼を担っている。熊本に3兆円の投資で交渉を設立した『T S M C』の設立は1987年で、創業26年の企業である。

日本の中で歴史の1小節を生きてきた自分が、残された時間でどんな歴史を刻むのか、己を奮い立たせたいものである。


6年ぶりの海外旅行、玄関口となる関空の景色はすでにあの頃ように見えてはいないことに怖気付きながらの旅行での出発だったが、見えずらい目であってもまだまだ見てない世界を見て見たい。

戻ってきた関空を後にしながらそう思った。


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