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作る、食う、生きる――雑で楽な自炊への道。その⑥(終)リアリズムの食卓、参考書籍、追憶と情報。

 前回『楽で雑な自炊への道』自体は終わったのですが、じゃあ「そういうお前の日々はどんな感じなのよ?」という話をしなければならないと思います、思うんです。他人に「やってみろ」と言うからには、自分の生活をあけすけにしなければならない義務があるのでは?という考えがひしひしと感ずるぅ!感ずるよぉ!
 
 だから本来は人様に堂々とお見せできるものじゃないものを貼る。個人的にこういう食事を『リアリズムの宿』(つげ義春)ならぬ「リアリズムの食卓」と呼んでいます。気まぐれに写真を撮っているだけなので、その中から何点かを。

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 現在、私のごはんでもっとも登場頻度の高いものですねぇ。玉子2こ+キャベツ or もやし100g+米、という「タンパク質+野菜+炭水化物」の要件を満たしつつ、値段を抑えて洗い物も少ない……なんかあと数歩でディストピア飯になってしまいそうですが、日々はだいたいこんな感じです。ソース+マヨネーズをかけると脳が「お好み焼きの味がする!」と錯覚します(もやしよりキャベツの方が、騙されレベルが高い)、あとは半面に七味唐辛子をかけてちょっと気分を変えたり。

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 これは「かなり気合の入ったお弁当」ですね。というのもゲーム『十三機兵防衛圏』が、あまりにも面白くて……クリア記念にゲーム中で登場したお弁当を再現してみたときのです。

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これね。
 すいません。「こんなんもできるんだよ!」と言いたかったのです、こんなことは毎日できねぇ……。

弁当図

 だから毎日のお弁当はこんな感じ。

弁当例2

 冷凍野菜は解凍て水切らないとびっちゃびちゃびになるからレンチンしてるけど、おかずは大抵「自然解凍OK!」をそのままブチ込んでる。調理時間(は?解凍に使ったタッパーを洗うから、私の定義では「調理」ッスから)およそ5分。ほぼ15年くらい毎朝お弁当を作り続けているので、面倒とかそういった感情は無い。継続 is パワー。

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 これは「めちゃくちゃ嫌な事があったので、とにかく好きなものを作って腹いっぱい食ってやる」のとき。牛肉とニンニクの芽の中華風炒め+ネギとワカメと油揚げのお味噌汁+箸休めにメンマ+ごはんはおかわりもあるぞ!

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 このシェファーズパイもどき(イギリス風マッシュポテトとひき肉のオーブン焼き)がすっごい好きでね……パイと言ってもパイシートとか使ってないから「パイじゃないパイ」なんだけど、うめぇからいいんだよ!

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 ホイル焼きはアルミホイルでぴっちり包んで魚焼きグリルに突っ込むだけなので、実はすげぇ簡単。そのわりには「ちゃんとしてる!」感があって良い。

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 肉じゃが。ほんとうはここからジャガイモがグズグズになるくらい煮詰めたヤツが好き。酒に出汁の素しょうゆ砂糖で適当に煮ればできるから、肉じゃがって玉子焼きよりも簡単だと思う。

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 トマト玉子炒め!大好き!
 トマト玉子炒めは何回作っても「これじゃない失敗した……でも超うまい! 超うまい!……でも失敗した」って感想になる。トマト玉子炒めは最上があるという幻想、それは素晴らしき黄金郷の蜃気楼、どこかにあるというガンダーラ。
 
 ポエムがはじまったので終わりだな。
 ここにあげたのはかなり日常よりですが、それでも「写真を撮ろう」とする程度にはちゃんとしている料理群なので……あとは推して知るべし、といったところでしょうかw
 
 最後にいくつか、自分の料理観みたいなものを作った……というより言語化する手助けになった本を紹介したいと思います。
 
・玉村豊男『料理の四面体』

 これさえ読めばほぼ無限のレパートリーを手に入れることができます。これはレシピ集などではなく「料理する」という行為、その方法が「どのように思考されるのか?」という面に着目しているからです。
 調理に関係する要素「火、油、水、空気」の割合と強さを変えて組み合わせることで、様々な料理を作り上げていきます。
 例えば、ここに生の魚があるとして。これを直火で焼けば「焼き魚」、少し火から離して網にでも乗せれば火の要素が少し減って代わりに空気の要素が加わる「網焼き」、もっと火を与える時間を減らせば「タタキ」や「炙り」、そして火を太陽の位置まで離せば「干物」、火を消せば「刺身」になる……今度は水を使いましょう、ぼちゃんと水に沈めて火にかければ「煮物」、水から上げて空気を足せば「蒸し焼き」、火を消して水と調味料で和えれば「なます」に。
 といった具合に「調理」という漠とした行為を4要素の組み合わせと定義して、目の前の素材をどう扱うか?に対する思考法を与えてくれます。
 その③において私は≪「レシピ」は覚えられても「料理」を身につけることにはならない≫と述べました。この本はその真逆、つまり≪「レシピ」は一つもないが「料理」を身につけることはできる≫という大変に不思議で面白く、そのうえ有効性の高いものになっています。本当に良い「料理本」なので、是非に。
 
 
・吉田戦車『逃避めし』

 2冊目にして完全変化球ですがw
 これは「漫画の締め切りを目の前に、それから逃げたい気持ちで作る。適当な料理たち」を書いたエッセイ集です。これがホントに何てことない材料と調味料の組み合わせがほとんどの中で「ああ、そういうの」から「そんなんする!?」まで、幅広い料理が登場します。
 料理というのは発想とイメージを出発点とし、それを何となく再現するものだ。という意識を身につけるのにとても良い読み物だと思います。
 個人的には「肉まんの中身」の回で作られた「肉まんの中身みたいなものを作り、皮じゃなくて白いご飯に乗せて食う」が「なるほど、ありだわ!」って感じで、実際にやってみた結果年に数回作る好物になりました。
 あと最後に出てくる

「なんとなくこの連載は、小さい人や若い人に読んでもらいたいような気持が常にありました。適当でいいから基本さえおさえてれば、自分の身を養うシンプルな食事は自分でまかなえる。こんな程度のものでいいんだよ、と」
「(自分の子供が10歳ぐらいになったとき)たとえば親の留守中、一人で冷や飯に味噌汁をかけて一食とすることができるような「食う力」を身につけてくれたら、どれほど安心なことでしょうか」

という言葉は、私の料理に対する考え方と重なる部分が多く、深く感動したものです。
 
 
・NHK「きょうの料理ビギナーズ」ハンドブック『基本がわかる!ハツ江の料理教室』

 NHKの「きょうの料理ビギナーズ」はマジすげーから。
 いやあの私は基本的に「レシピ不要論」者であるので、こういった料理番組とかはあまり好きではないのですが「きょうの料理ビギナーズ」は別。あの番組には「人類が調理をする」という文化への哲学がある。
 ある程度料理を身につけた人にとっても「あー面倒がってそれやってなかったなぁ」「あっその知識が抜けてた」という感じで初心に戻ったり、見落としている部分を再確認できたり「丁寧さは味へと直結している」ことを改めて思い出すには良い一冊です。
 
 
 料理本としてはこの3冊があれば、もう困らない。それぞれ思考法/心構え/基本の技術という必要なものが全てこれで揃う。


 
・現代フランス×ノルディック『発酵で料理する』

 と、いうことであと2冊は異質なものを。
 2018年に翻訳なので「最新」ではないけど、かなり最前線のガストロノミーに関する一冊。これは「絶対真似できない料理の深淵」のチラ見することで、想像もできない場所に至る「料理」という世界と、それでもこのチクワ野菜炒めが異世界にしか思えない場所と地続きであることに感動と畏怖を覚えるための本。
 
 
・アンソニー・ボーデイン『キッチン・コンフィデンシャル』

 ニューヨークの有名シェフによる自伝……ではあるものの、内容は粗雑&下世話。シェフという生き物、厨房という異空間を覗き見しつつその場所が普通の社会とはかけ離れた倫理で駆動していることを知ることができる。
 そしてそれだけ異質にも関わらず、料理に対する深い敬意と愛情があることを、人の「生」と隣接した料理と言う宗教の司祭がいかに特別かを思い知らされる。「料理人」という者への尊敬を込めて

 
 
・おわりに

 なぜ自分が料理好きなのかを考えることがある。単純に「食べることが好きだ」というのは大きいが、恐らく祖父の影響があるだろう。
 祖父は私が小学2年生まで中華料理屋をやっていた。いわゆる駅前中華とか町中華という感じで、お昼にはラーメンチャーハンセットだの青椒肉絲定食(からあげ2個付き)だのを提供し、夜にはそれに加えて一品料理とお酒を出すような店である。割と家族連れも多く、時には同級生の一家を見かけることなどもあった。
 1階はテーブルが確か12、2階は座敷になっていてそこで宴会なども行われるらしかった。子供の時分にはそういった営業をしている時間に店へ行くことは無く、ただ2階には中華料理でよく見る「真ん中がグルグル回る丸テーブル」があり、その存在が何か特別なものがそこにあるのだと感じ取らせていた。
 儲けは悪くなかったようだったが(今になって思えば周囲に家族で入れる料理店などは少なかったように思う)祖父のリューマチの悪化で鍋を振るうことが困難になり、閉店することとなる。
 
 その時は子供らしいシンプルさで「おじいちゃんのお店は私が継ぐんだい!」と言っていたが、その後のことを考えると仮に店が続いていたとしてもそれは無かったであろう。それでも自分から「それは無いな」と思うことと、他の事情で「それは無くなった」のでは、気持ちの上で大きく異なる。
 つまり私の心には「なりたくてもなれなかった料理人」という幻想が残り続けている。
 
 幼い挫折は、幼さゆえに苦しみはなく比較的純粋な尊敬に変わる。あらゆる料理人にリスペクトを覚えてしまい、ましてやその料理人が「おじいちゃん」と呼んでしまえるくらいの年齢/性別だと、そこで出される料理がとても美味しく感じてしまうのである。私が料理好きなのは、そういった憧れと間違いなく繋がっていることを肌で感じているからだろう。
 
 「人は情報を食っている」という有名なセリフがあるが、そういった意味では私にとっての食事はその最たるものだ(一方でそのセリフが出てくる作品には申し訳ないことに、決してラーメンがメインではない中華料理が根源にあるため、「ラーメン」にはほとんど興味が無い)。私は情報と慕情を食べ、感傷と追憶を作っている。
 
 だがそれでいいのだ、と開き直る。食べるとは生きることで、生きるとは何かが残ることだ。私はその手前に「作る」という工程があるというこだけである。だからタイトルを「作る、食べる、生きる」とした。
 そうやって記憶であったり足跡であったりウンコであったりを残す、もしかしたら何かもっと価値あるものを残せるかもしれない。それはまだわからない。
 
 ただ明日からも私はごはんを作り、食べていく。

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