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【インタビューVol.2】取締役CTO・米本浩一先生〜川崎重工時代〜

この記事は、CTO・米本浩一先生のインタビュー続編となっております。Vol.1はこちらからアクセスできます。

再び登場いたしましたインタビュアーのLichtです。Vol.2をご覧いただきありがとうございます。今回はエンジニアとして活躍した川崎重工時代編です!多分野に渡り活躍した米本先生をお楽しみください。

濃い学生時代を経て、川崎重工に就職しました。流体の研究をしていたため航空機事業本部 航空機技術本部技術部 空力課に配属されました。

#川崎重工時代

 初めに任された業務はBoeing社と新民間航空機の開発でした。航空機を作りたいと言う希望を持ち入社し、気づけば6年が経っていました。

 ある時、輸送技術を学ぶために文部科学省 宇宙科学研究所(通称、ISAS)に出向するように命じられました。最初は、飛行機屋さんであった米本先生は分野の違う宇宙屋さんのISASに移動することに反対していました。ですが、当時の部長に説得され8ヶ月だけ大人しくしていれば戻れると言う条件つきで、(渋々)出向することになりました。

#いざ宇宙科学研究所へ

 宇宙科学研究所の長友研究室に出向した米本先生に待ち受けていたのは小惑星探査機「はやぶさ」のプロジェクトマネージャーを務めた川口淳一郎氏と宇宙航空研究開発機構 宇宙科学研究所 特任教授の稲谷芳文氏でした。研究室が非常に忙しい時期に出向した米本先生は「このクソ忙しい時によくこんなところにに来たな」と川口淳一郎氏に挨拶をされたそうです。というのも、川崎重工が開発した実験用ヘリコプターBK117で有翼飛翔体を持ち上げ滑空性能について調べる試験の準備で研究室はてんてこまいでした。

  最初に有翼飛翔体滑空試験に携わることになり、秋田県能代市へ向かいました。しかし、初期の試験において実証機は墜落。新聞には、「激突粉々」と掲載されるほどでした。長友先生に試験データを解析するよう命じられた米本先生は空力データが違うことを見つけました。長友先生の主導ですぐに試験機の改造を徹夜で行い、滑空試験の成功を導くこととなりました。

1986 文部科学省宇宙科学研究所-3

有翼飛翔体滑空試験での米本先生(前列右から2番目)

 出向してから1年、飛行機屋さんであった米本先生は新しい技術に挑戦する宇宙分野に携わるにつれて、「なんか宇宙も面白いな」と思い始め、宇宙機の魅力に引き込まれていきました。それは、川崎重工の部長に命じられた帰任を断るほどでした。

 次に携わることになったプロジェクトは完全再使用型弾道飛行機 HIMESにでした。この実験はゴンドラに固体モータと実証機HIMES乗せ、高層気球で高度20kmまで打ち上げます。その地点からHIMESを高度80kmまで打ち上げ、大気圏外からの再突入が行われました。
 この頃から、米本先生は再使用のためであるのに機体を壊す試験に対し疑問を抱き始めていました。

1986 文部科学省宇宙科学研究所-1

文部科学省 宇宙科学研究所での米本先生(右)

#宇宙往還機HOPE, HOPE-X

  完全再使用型弾道飛行機 HIMESの試験が終わる頃には、出向から2年の月日が流れていました。当初の予定を大幅に超えた出向であったため、米本先生は川崎重工に帰向することとなりました。

 すっかり宇宙屋さんとなった米本先生は、帰向後最初のプロジェクトに宇宙往還機HOPE, HOPE-Xへ参加することとなりました。他企業から参加していた三菱重工の浅田正一郎氏や現 東京理科大学の小笠原宏教授と出会いおよそ10年間共にプロジェクトに携わることとなりました。その間、再突入の空力加熱実験や極超音速実験HYFLEX、オーストラリアのウーメラ飛行場で小型自動着陸実験ALFLEX等のプロジェクトで基本制御を行いました。

 HOPE-Xの先行きが息詰まっていた頃、H-IIの失敗が相次いでいました。宇宙科学事業団(NASDA) は事故調査に力を注ぎ、新たな主力大型ロケットであるH-IIAに予算を優先していました。そのため、10年間に渡り携わってきたHOPE-Xは凍結となりました。

 面白そうな実験を聞きつけた米本先生は、能代多目的実験場で行われた再使用ロケット実験機第3次離着陸実験に参加し成功を収めました。

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飛行中の再使用ロケット実験機 (credit : JAXA )

#エイリアン ?!

 ですが、再び現れた上司により宇宙業界から航空業界へと引き戻されることとなりました。旅客機に携わるのかと思いきや、選ばれたのは自衛隊機でした。

 新たな分野に迷い込んだ防衛航空機設計部では、次期固定翼哨戒機(P-X) 及び次期輸送機(C-X)を任されました。ですが、宇宙にのみ携わってきたためエイリアンのように扱われたそうです。
 ですが、川崎重工と防衛省間における次期固定翼哨戒機(P-X) 及び次期輸送機(C-X)の提案商談会において、とんがり続けうまく切り抜けた米本先生は、徐々に防衛分野でも認められる存在となりました。

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C-2 輸送機 (credit : 川崎重工)

#さらば川崎重工

 提案商談会が成功した後、次期固定翼哨戒機及び次期輸送機設計チームが発足されました。

 約3年間携わり、試作機の製作に移る段階で席を見つけることができませんでした。区切りであると感じた米本先生は川崎重工を離れることを決意しました。 

次回は〜教授時代〜現在へと続く

取材・文:Licht(大学インターン生)