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習性と逸脱


香りは最大の暴力。
人は声を最初に忘れ、次に見た目を忘れる。
しかし、それらを一度に思い出させるのが香り。

どこかで読んだ一文だった。

そんな話を深夜、社会人になりたてだった私は知人の家に泊まった日になぜか口にした。そんな詩人みたいなことを誰かに言うなんて思いもしなかった。
きっと夜とお酒のせいだった。

笑われると思ったが、真剣に知人は耳を傾けて聴いた。そして一瞬の沈黙のあとに、こう言った。


東京で一度だけ、懐かしい人を想わせる香りに巡り合ったことがある。
どんな部屋だったか、何を話したか、嵐のように一瞬で蘇った。桃が嫌いな人だった。
誰にも心を許せない、優しい人だった。

あれは愛した証拠だと思う、と遠い目をしてはっきり言った。恋じゃなくて愛。


恋も愛も興味がなかった私は、何が違うのかと聞いた。

好きは依存、愛は祈り。


氷の入ったグラスをからん、と揺らしながらはっきりと言った。
「自分を責めた夜もあった。何度も夢に見た。
でも、今はどこかで生きてくれてたら、それだけで幸せだなって思う」


同じ20代とは思えない答えに何も言えなかった。

なんでそんなに呆気に取られてるの、と笑って知人が言った。

20代前半でそんなに達観してるなんてすごいよ、と返すと「わかんなくていいよ」とさらに笑って言った。
サッパリしたいからシャワー浴びるね、と風呂場に行く知人を「お酒飲んだ後にシャワー浴びるんだ」と不思議に思ったが口にはしなかった。
その代わり「温度上げすぎに気をつけてね」と言った。



片付けを終え、歯磨きをしようと洗面台に向かった私は何も知らなかったことに気づく。




シャワーの音に混じって嗚咽が聞こえた。
声を噛み殺し、耐えていた。




なぜか、羨ましかった。
こんなに誰かを想って泣けるだろうか。
名前も顔も知らない誰かを今すぐに引きずって知人の前に突き出したい衝動が湧いた。


こんなに泣いてるやつを放っておいて、てめえはどこで何をしてるんだ。ふざけるな。
重い鎖を残すくらいなら、せめてぶった斬ってから行け。ありとあらゆる罵詈雑言を浴びせて嫌われてから消えろ。


が、所詮は2人の間に何があったのか知る由もない。語ってくれるとも思えない。

でも、いつかその理由を言ってくれたなら一緒に泣こうと思った。今夜あいているかと聞かれたらどんな予定も蹴り飛ばして行こう。そう誓った。




あれから数年、まだこの関係は続いている。

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