理系に進ませたいお母さま方に贈る、大学でも通用する創造型勉強法

理系が就職には有利だ、などと言われます。

有利かどうかは分かりません。

理系女子のことをリケジョ、とも言います。

理系は専門性が身につくので、出産などの理由でブランクが空いても再就職しやすい、とも言われます(本来はそういう男女格差はなくすべきですが)。

でも、「理系は苦手」と言う人がたくさんいます。本当によく聞きます。先日お話をした、「高校生のためのコンピュータサイエンスオンラインセッション2020」のQ&Aでも、

「私は理系科目は苦手なのですが・・・」
「私は数学は苦手なのですが・・・」

で始まる質問が多かったこと・・・。

なぜ苦手なのか、考えたことありますか?

しかし、なぜ苦手なのか、と言う話はあまり聞いたことがありません。皆さんに理由を聞くと、

「分かりません。私は理系の内容分かってないんで」

とか、

「私は○○○が分かりませんでした。●●●って言われても全然わかんない〜」

という答えが返ってきそうです。でもこれってどちらも、理由では無いですよね。なぜだか、内容の話に入っていっちゃってます。

この記事に目をとめた皆さんは、

「自分は理系で無いけど子供には理系に進んでもらいたい、でも子供はどうも理系が苦手で・・・。自分も理系じゃなかったからアドバイスできなくて・・・」

と悩んでいる方もいらっしゃるかもしれません。

でもでも、実は、理系科目が苦手になる理由は、科目の内容に一切ふれなくても、説明できるんです。

ここでは、理系科目の内容には立ち入らずに、理系科目が苦手になる理由、そしてその処方箋を考えてみようと思います。しばらく、お付き合いください〜!

理系科目が苦手になる、たった一つの理由

歴史で言えば、平安時代を授業でやっている時に、体調を崩した学校を休んでいても、鎌倉時代から出席すれば、鎌倉時代の内容にはついて行けますよね。

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でも、理系科目では違うんです。足し算が分からなければかけ算は分からない。かけ算が分からなければ割り算は分からない。それが分からなければ微分積分は分からないんです。

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こういうことを、少し専門的な言葉で言うと、文系科目は各単元が独立、理系科目は各単元が以前の単元に依存(従属)する、と言ったりします。(本当は、文系科目だって平安時代と鎌倉時代のつながりが分かった方が理解が深まったりするのですが。)

ここまで理解すれば簡単な話なのですが、理系科目が苦手になるのは、この依存関係の鎖の、どこか1カ所が分からなくなるからなんです。

文系科目:どこかが分からなくても、他は分かる可能性が高い
理系科目:どこか1カ所でも分からなければ、残りは全て分からない。絶対に。

この、依存関係というのは、良くも悪くも、本当に明確なんです。Bが分からなくても、CかDが少し分かる人がいるだろう、なんてことはあり得ない。Bが分からなければ、Cも、Dも、それ以降も、絶対に分からない。これは金科玉条なのです。

本当のところは、B←C←Dのように直線的ではなくて、どこかで合流・枝分かれすることもあります。その場合は複雑になって(研究者的には面白くなって)きますが、ここでは簡単に、直線的な場合だけを考えます。

だから、教える立場からは、この依存関係を注意深く扱いながら、教え方を設計します。教える順序つまりカリキュラムは当然のこと、授業の時だって、Cが分かるためにはBが分からないといけない。だからBを何度も何度も念を押しながら授業を進める、など。

でも、どんなにカリキュラムや教え方が素晴らしくても、生徒の都合、例えば、授業を休んだ、とか、授業中ぼんやりしていた、とかでこの連鎖が断ち切られたら、元の木阿弥。

これですっきりしました。理系科目が苦手になる理由、それは、依存関係があるから。なのです。

え、すっきりしていないって?そうですね。原因が分かっても、解決策がないとすっきりしないですよね・・・。ここからは、処方箋を考えてみたいと思います。

だからといって、山登りをする必要があるのか?

中学校の数学の先生が、こんなことを口癖のように言っていました。

「数学は山登り。」

確かにそうです。今思えば、これは、この先生なりの、依存関係があるということの説明だったと思います。

だけど、この説明には、大きな問題があります。それは
・私を含め、多くの人が山登りは嫌い
だと言うことです。

確かに、山頂についたときの、達成感と開放感には、格別なものがあります。私もその瞬間は、うぉーっと叫びたくなります。でも、山登りをする前、している間、そして後も、ほとんどの時間は、「そこまでする?」という感覚なのです。

「数学は山登り」と聞いて、苦手な数学を克服した話はあまり聞ききませんし、「数学は山登り」と認識するのは、直接的な処方箋では無いのかもしれません。

では、直接的な処方箋は、何なのでしょうか?

処方箋も、これ以上無いほどシンプル

依存関係の話に戻りましょう。Bが分からなければ、CもDも分からない。これは金科玉条だと書きました。

論理的に考えれば、簡単に分かります。
・苦手を克服するには、はじめに分からなくなったBを分かるようになるしかない。それ以外に方法は無い。
これしかないのです。簡単ですね。

論理的な思考法は詳しくは述べませんが、「Bが分かれば、後は全部分かる」とは論理的には証明できませんが、しかし、「Bが分かるようになる以外に方法は無い」は証明できます。

「山登りをして山頂を目指そう」なんて考えなくていいのです。今、ここにいるBという場所で、ピクニックを楽しむ、ということです。

分からないからと、むりやり先に進んでみたり、気分転換に部屋を片付けてみたり、いろいろなあがきをするかもしれません。しかし、これらは直接の処方箋ではないのです。もちろん、確かに私もそういうことをします、が、それらはあくまで、「先を見てBがどう使われているかを見てみよう」とか、「脳の酸素を入れ替えてBをもう一度考えてみよう」とか、あくまで「Bを理解するため」でなければ、意味は無い、と言うことです。

「いやいやいや、当たり前でしょう、そもそもBの内容が分からないから問題なのであって、Bが最初から分かっていたら苦労はないよ!」

と言われるかもしれません。

そうなんです。その通りなんです。でも、ちょっといじわるな言い方ですが、その言葉が実は問題なのです。その問題とは、
・問題定義と解決策をごっちゃにしている
ことなのです。

創造型思考法とは

ところで、研究、というのは、勉強の先にあるもの、と思われるかもしれません。もちろんそうかもしれないのですが、研究に慣れていない学生が良くおちいるのが、これと同じ話なのです。

「この問題を解決しようとしているんですけど、方法が分からないんです・・・。」

と言う具合に相談してきたりします。
そんなとき私は、こう答えたりします。

「その問題っていっているのは、どういう問題?明確に説明してみて。そして、他に似たような問題や研究があるか、探してみてくれない?」

そうすると、多くの場合、学生は問題をきちんと説明できません。どこか曖昧だったりします。そして説明できるときには、他にこういう問題や研究がある、と言うことができます。だって、説明できた時点で、何らかの記号や図で表せています。記号や図で書けたら、同じような問題を、過去数千年の学問の歴史で、誰かが考えているはずですから。

そうするとその関連研究には、その解法も書いてあることが多いわけです。そして、問題定義だけでなく、方法まで分かっちゃうことになります。(もちろん完全に一致はしませんので、その違うところが、その学生のオリジナリティ、創造性、と言うことになります。)

実は、大学では、研究室の学生についてこんなことを言ったりします。
・学部生は、与えられた問題を与えられた方法で解くチカラを身につける。
・修士の学生は、与えられた問題を、自分の力で解くチカラを身につける。
・博士の学生は、自分で問題を見つけるチカラを身につける。

修士は問題解決能力、博士は問題発見能力、というわけです。このくらい、問題を発見して、定義する能力というのは高度なのです。だから、科学者の間では、問題をきちんと定義するだけで、一目置かれます。と言いますか、問題を定義して、それを後に続く多くの研究者が論文で引用するようなことがあれば、それはそれは被引用数が多い論文として高く評価されます!

勉強法に話を戻しますが、

「そもそもBの内容が分からないから問題なのであって、Bが最初から分かっていたら苦労はないよ!」

というのは、問題定義を曖昧にして、解決法を見つけようとしている学生と、似たような思考なのです。

ここはまず、この研究のやり方に従って、問題をはっきりさせることが大切です。そうすれば、自ずと処方箋も見えてきます。

・・・長くなってきたので、ここでいったん区切ります。

あなたが大学院生だったら、私はここであなたにしばらく考えてもらいます。皆さんも、少し、解決策では無くて、問題の定義の方を、考えてみてはいかがでしょうか?




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