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旅における迷子
沢木耕太郎さんの名著「深夜特急」トルコ・ギリシャ・地中海編の高田宏さんとの対談にて、迷子になる可能性について言及がある。
それによると、旅には距離感が大切であり、その距離感を掴むには地球を感じることが求められるというのである。加えて、可能な限り徒歩の方がいいようである。
歴史を遡ると松尾芭蕉のような当時の人は、帰りを決めずに旅をする「漂泊」をしており、旅の途中で死ぬ可能性も覚悟の上で出発し、むしろ途中の死に憧れを持っていたと書かれている。それは、旅というものと、生というものがイコールで繋がって存在しているということらしい。
また、当時の人は、日本の中をどのようにしてどのくらい歩けばどこに着くかという感覚があったのではないかと言及されており、と同時に旅の本質として、予定通りには行かないあるいは迷子になる可能性が含まれているとあった。
僕はこの対談を読んで、旅というものについて考えさせられた。そもそも現代では、「迷子」になるという可能性が極めて低い。意識することもなく、スマホを起動させGoogleマップを開けば、自分の現在位置が判ってしまう。それは、未知との遭遇を妨げているのではないか。
また、「移動」についても考えた。大抵の場合、現代の移動には飛行機や電車などが伴うが、それは自分が目的地に運ばれるという極めて受動的な行為である。言い換えれば、我々は輸送されていると言ってもいいかもしれない。対して、徒歩や自転車はどうだろうか。そこには自分の体を使うという身体性が必要になってくる。この身体性が旅には大切なのではないかと仮説した。
これまで旅というものが、生と関わっているなんて考えたこともなかったが、同時にそのことにワクワクする自分もいた。
それは、僕が人生に退屈気味なのは、生死と縁遠い存在として、恵まれた生活を送れているからかもしれないと気づいたからである。
これは仮説段階なので、今週からの旅で検証していきたいし、いつかは「帰りを決めない旅」もしてみたいと思うのだった。そして、どんどん迷子になりたい。
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