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Run


2度吸って大きく1回吐く。
胸が苦しい。
「足をとめる」を考えないように.目前の景色情報だけを頭に詰め込む。
日も出ていない暗い朝の山道。
地を踏む度に足を切りつける朝露。
辞めたらもっと苦しくなるのを知っている。
この呼吸で騙し続け無いと前に進めない。

2度吸って大きく1回吐く。
手先はもう冷えきって感覚が無い。
けれど私はこの手がある境界線を超えると、今度はじんじんと熱を持つことを知っている。

2度吸って大きく1回吐く。
気付けばペースメーカー代わりに追っていたバレー部の子はもう見えない。
後ろにも誰もいない。
この寒々しい山道を、誰に見られることもなく私は走っている。

2度吸って大きく1回吐く。
ただの帰宅部の私、一緒に走ろうという友達の誘いも断った私、だけど今はそんなの考えない。
苦しいのも冷たいのも考えない。

2度吸って大きく1回吐く。
風を切る音しかしない。
見なくてもスニーカーも靴下も泥で汚れているのがわかる。
終わった時には擦り切れているかもしれない。
終わりなんてあるのかも今は信じ難い。

2度吸って大きく1回吐く。
陸上部だった中学時代は、坂道にきっとここまで手こずらなかった。
高校では陸上部に入らなかった。
それなのに、私はこんなにも校内の全校生徒参加のマラソン大会に情けないくらい全力だ。

2度吸って大きく1回吐く。
中学時代、この独特な呼吸法やめた方がいいと先輩にもコーチにも言われた。
直そうと思ったが直す前に引退してしまった。
私はこれでしか走り続ける方法を知らない。

2度吸って大きく1回吐く。
陸上が好きだったかと聞かれると分からない。
部活は嫌いじゃなかった。
部員も嫌いじゃなかった。
なのにあの時のメンバーは今どこの学校に進学したのかも、続けているのかも、分からない。
分からないのは、私が続けていないから。

2度吸って大きく1回吐く。
苦しい。
どれだけもうすぐだと信じても手先は冷たいまま。
背中には絶え間なく汗が伝うのに山道の冷たい冷気は顔面を刺し続ける。

2度吸って大きーー

ーー衝撃。

冷たい朝露に切りつけられる、なんてものじゃない痛みが膝に走る。
砂利の地面に殴りつけられる。

見ないように見ないようにしてきた地面が目前にある。
派手に転んだ、と頭が理解した瞬間。
必死に頭に詰め込んでいた景色の情報も、指先の冷たさも、そして呼吸も、全て痛みに変わった。

走るのを辞めた瞬間、心臓が飛び出しそうな勢いで早鐘を打っているのを実感する。
失速する時間が無かった分もっと辛い。
ぜえぜえぜえぜえ、
醜く乱れた呼吸音が嫌にリアルに頭まで響いた。

…もういいんじゃないか?

息が切れる。
同時に何かが切れたような気がした。

前にも後ろにも誰もいない。
転んだことなんて無しにできる、ここにいるのは私だけ。
それどころか。
校内のマラソン大会にこんな全力になっていることすら、今だったら無しにできる。
だってずっと私しかいない。

呼吸が苦しい。
ふと足元を見るとやはり泥だらけだった。
血まで滲んでもっと汚かった。
痛いのと苦しいのと、よく分からない何かで涙が出てきた。

呼吸が苦しい。
陸上は好きかと聞かれると分からない。
なぜ入部したのももう覚えていない。
今続けていない理由もよく分からない。
それなのに必死に走ってた、自分。

呼吸が苦しい。
本当は今日は適当にやり過ごすつもりだった。
めんどくさくて早く帰りたくて疲れるのも嫌だ。
それなのに、スターターピストルが弾けた瞬間に思考も身体も勝手に切り替わった。
誰も見ていないのに。
競う相手もいないのに。

もういいんじゃないか?

呼吸が苦しい。
滲む涙でぼんやりと不明瞭な視界。
今更になって指先が暖かくなってきた気がする。
長距離の、この瞬間が好きだった。
冷たい外気で凍てついた手が、自分から湧く力で熱を帯びると誇らしい気持ちになれた。
もう今更遅い。
もうここで辞める、あとは歩いてしまえばいい。
だって、誰も見ていない。

…?
違う。
私の熱じゃない。
右手だけが暖かい。光に触れている。
顔を上げると痛いくらいの光が飛び込んできた。

日が昇っていた。

呼吸を整えることも忘れる朝日だった。
それは温かいけど、優しくは無かった。
眩しすぎて痛かった。
冷たいだけだった朝露が光を浴びて光っている、草木にだけは優しくしているように見えた。

立ち上がってみた。
真正面から体の全てに光が当たる。
攻撃的だったはずの空気が透き通った気がした。

ゆっくり息を吸って大きく吐く。
眩しい光の中で見てもやはり泥だらけで汚い足元。
だけど、捻挫はしていない。
膝には血が滲んでいるけど、まだ動かせる。

ゆっくり息を吸って大きく吐く。
陽の光が真っ先に髪を温めているのがわかる。
手のひらを握り直してみた。
暖かかった。
今度こそは、私の熱だった。

ゆっくり2度吸う、大きく吐く。
歩き出してみる。
とても静かな場所にいたんだとやっと気づいた。
空気は代わらず冷たい。
だけど、肺に入れた空気は澄んでいる。

ゆっくり2度吸う、大きく吐く。
転んでも立ち止まってもこうして歩いても、やはり誰もいない。後ろからも誰も来ない。
自分の順位も全く分からない。
前にも誰も現われない。

ゆっくり2度吸う、大きく吐く。
もう一度走ってみる。
足も膝もまだ大丈夫だと応えていた。
手のひらはじんじんと熱を持っている。

2度吸って大きく吐く。
風を切る音。
やはり優しいとは思えない眩しい朝日。
誰も見ていない中でもう一度私は走り始めた。

2度吸って大きく吐く。
スターターピストルがなったあの瞬間に走る身体に切り替わったのは、習慣では無かった。
身についていた感覚では無かった。
私が、あの頃の私を、もう一度見たいと思ったからだった。

2度吸って大きく吐く。
ゴールしても誰も待っていないだろう。
帰宅部の私の順位なんて誰も気にしないだろう。
誰も見ていない。
私だけが私を見ている。
私だけが、今走る私を決めた。

2度吸って大きく吐く。
陽の光は眩しすぎて励ましにはならない。
元より励ましが欲しかった訳では無い。
欲しかったのはこの手のひらの熱だ。
あの頃から今も私を誇らしいと思わせるこの熱だ。

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