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なにかを知っていることの意味


いつものごとくベッドから動かず、なにも考えないで見られるバラエティー番組の再放送を見る。予定のない日曜日の過ごし方。

今日はクイズ番組の再放送しかなかったのでそれを見ていたのだけど…クイズ番組ってなにを伝えたいのだろう…?

学校で勉強できる奴が結局すごいんだぞってこと?勉強ができれば金(賞金)がをもらえるんだぞ、ってこと?東大やら京大やら、名の知れた大学に行けよってこと…?

番組の楽しい雰囲気で気づかないように、いろんなことを伝えてしまっているような気がしてならない。


確かに、クイズに正解したら楽しいし、クイズ番組を見て盛り上がる家庭も多いと思う。(わたしも小さい頃はおばあちゃんの家で、家族みんなで見て、世代関係なく楽しめるから盛り上がった楽しい思い出がある。)

そんなことを想像してテレビ局の人も丹精込めてつくっているのだと思う。(自分がコンテンツをつくる側になって、身にしみて感じる…。)

でも、良かれと思ってやっているクイズ番組も、「知識があるほうがいい」という裏メッセージを伝えているように思えてしまう。


確かに、なにかを知らないよりは知っているほうがいいかもしれないけれど、いざというときに自分がどんな情報を必要とするのかなんてわからないと思う。

そうなると、「情報を得る方法」を知っている方がいい、の方が納得できる。

例えば、わたしが就活できなかったときも(詳細はこちら)、リクナビやマイナビ以外の仕事の探し方知っていたり、変わった働き方をしているひとにたくさん聞いたりしたから、素敵な会社を見つけることができた。

でもそれは、わたしがいろんな仕事や働き方を知っていたというより、その情報にたどり着くための人との関係性や、調べかたを知っていたからだと思う。


何十年か前の、物事を調べるのが難しかった時代には、なにかを知っていることが大事だったのかもしれないけれど、

テクノロジーが発達して、知らないことがすぐに調べられる時代に、人が何かを知っていることにどれくらい意味があるのだろう?

隣の人が知ってるんだったら、教えてもらってそれで解決、終了!でよくない?みんなで思い出してる時間があるなら、みんなで力をあわせなきゃ解決できない問題がこの世界にたくさんあると思う…

(そういう意味では高校生クイズの、三人寄れば文殊の知恵は理にかなっているなぁと思う。)

同じく学校のテストも、鉛筆転がしてまでわからないことを1時間も考えて、知っているかどうかを「測る」時間があるなら、ゲームでもしてた方がまだ学びがあるような気がする。

なにかを知ってるより、人と関係性を結んで、わからないことをわかる人に聞ける方が、いろんなことを知って豊かに生きていけると思う。

学校文化の影響もあって、いまだに知識はないよりある方がいいという風潮が根強いように感じるし、クイズ番組がその学校的な価値観を助長しているように感じるのだ。



そして、最後に。

周りの人の会話で、みんな知ってることを知らなかったひとに対して、ほんの少し「え、知らないの?」みたいな、ちょっとしたマウンテインぐみたいなのを感じる瞬間がある。

そして、あれこれいいながらも、自分も人に対してそうしてしまっていることがあるのだろうなと思う。そんなもやもやに、どうやって向き合っていこうかな。




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