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意外と根深い!?「誕生日コンプレックス」を分析してみた

多くのひとにとって、誕生日ってどんな日なんだろう。年に一度、生きているだけで祝ってもらえる特別な日、だろうか。

いつからなんだろう。わたしにとっては誕生日はハッピーな日ではなく、誕生日が近づいてくるにつれ胸がざわざわする、ネガティブな日。そしてわたしはそれをいつからか「誕生日コンプレックス」と呼ぶようになった。

というのも、わたしの誕生日は「1月2日」、お正月なのだ。

そして、自分は誕生日がお正月なことによってあまり祝ってもらえないから「誕生日コンプレックス」なんだと、今日の今日まで思ってきたのでけれど、どうやらそうでもないみたいなのだ。

年末年始、つまりわたしの誕生日が迫るこの時期に、「誕生日コンプレックス」を分析してみた。そこで気づいたことをこのnoteではお話したい。(ここまで「誕生日コンプレックス」について言及したのは世界で初めてなんじゃないか?)



誕生日コンプレックス(日にち編)


わたしのこのもやもやを「誕生日コンプレックス」と言語化してからというもの、誕生日の話になるたびに自分が「誕生日コンプレックス」であることをひとに言うようになった。すると、自分が思っていた以上に「誕生日コンプレックス」のひとが多いことに気づく。

4月の初めでクラスの友達と仲良くなる前に誕生日が終わってしまうひと、夏休みや冬休みで友達に会えないから祝ってもらういづらいというひと、試験期間と被るためそれどころではなく祝ってもらえないというひと…

ほとんどが「学校のスケジュール」と結びついているということに気づく。

誕生日の目的が「ひとに祝ってもらう」ということだった場合、友達に会えないというのは大きな損失だし、子供の頃は友達には学校で会うものだったわけだから、納得がいく。

わたしの場合もそれに該当する気もするが、お正月はまた特殊だということを言っておきたい。

なぜなら、「クラス替えで祝ってもらいづらい」ひとの場合、確かに新しいクラスのひとには祝ってもらえないかもしれないけれど、今までの友達には祝ってもらえるだろう。

そして、夏休みや冬休みが理由で祝ってもらえないひとも、たしかに学校がある日が誕生日のひとに比べたら祝ってもらいづらいかもしれないが、休みにと友達に会うことはできる。

しかし、お正月が誕生日となると、特に子どもの頃は「お正月は家族と家で過ごす」家も多く、学校がやすみなうえに既存の友達にすら会いにくいのだ。さらには年末年始のお祭りムードによって忘れられてしまう可能性すら孕んでいる。

ここに、お正月が誕生日という残酷さがあるのだ。



誕生日コンプレックス(土地編)


最近ここまでの話を同僚にしたときに、「なんでお正月だと友達に会えないの?」と言われたのだ。その方は大阪出身で、お正月は友達と電車に乗って初詣に行っていたから友達には会っていたということだった。そして、「地元が雪国だから外に出れないんじゃないの?」と言われてはっとした。

そういえば、少女漫画とかで好きな人と初詣に行く的なシチュエーションに憧れていたなぁと思い出す。わたしが住んでいたところは、雪国というほど雪は積もらない地域だけれど、雪は降るし降れば外には出づらくなる。

そもそも、わたしは運よく駅の近くに住んでいたけれど、多くの友達が最寄り駅まで車で10分かかる、というような車社会の田舎だったので、出かけるには親に送り迎えをしてもらう必要があった。

だから、年末年始ゆっくりしていたい親を説得して、さらには雪が降るなか送り迎えをさせるというミッションをクリアしないと誕生日を祝うために会うことができないと考えると、幼少期に過ごした土地が関係しているような気がしてくる。

「誕生日コンプレックス」に出身地までもが関係してくるとは…驚きだ。

ここまで来ると、誕生日コンプレックスにもいろいろ要因があることが見えてくる。



誕生日コンプレックス(祝われ方編)

よくよく考えてみると、友達からの年賀状やあけおめメールには(ついでかもしれないけれど)必ず「お誕生日おめでとう」のメッセージが添えられていたし、年始に会うひとには「誕生日だったよね、おめでとう」と声をかけてもらっていた。

それに、わたしの家ではなにかめでたいことがあるときには、自宅から車で5分のところにあるおばあちゃんの家に行き、みんなでお祝いするという習慣があったので、毎年誕生日当日はおばあちゃんの家でみんなでケーキを食べていた。

なんなら、当日ではなかったかもしれないけれど、友達にお誕生日会を開いてもらったことも何度かあったと、今思い出した。

そう考えてみると、「誕生日がお正月だから」という理由だけでここまで誕生日がコンプレックスになる理由にはならない気がしてくる。


じゃあ、なぜわたしはここまでわたしは誕生日がコンプレックスなのか。それは紛れもなく、理想の祝われ方をして来なかったからなのだ。

家族に祝ってもらうことや、少ないとしても友達に祝ってもらうことが理想の誕生日なんだったとしたら、それはとっくに叶っているはずで。


じゃあ、そんなわたしの理想の祝われ方がなんなのかというと、頭のなかに2つ思い浮かぶ。

ひとつめは、「学校に行くと机にたくさんお菓子が乗っている」だ。

これは特に高校生のときの理想だけれど、やっぱり「日にち編」でも書いたように、中高生にとって学校はすべてで、そこでたくさんの友達に祝ってもらえるというのは、そのときのわたしからするととてもうらやましかった。

そして、それを自分はしてもらえないという劣等感から、コンプレックスが生まれているのだ。これは共感してくれるひとも多いんじゃないだろうか。

そして、もうひとつの理想的な祝われ方は、やっぱり「恋人に祝ってもらう」だ。



誕生日コンプレックス(恋人いない編)


うえでも書いたように、理想の聞かれて即答するのは、やっぱり誕生日当日に恋人と一緒に過ごすことだ。そして、それが叶っていないからコンプレックスになっているわけだ。

というのも、高校生のときは誕生日に、確か付き合っていたひとがいた気がするけど、「土地編」で話した理由から「会う」という選択肢はあまりなかった。

そして、それ以降、誕生日に彼氏がいたことがないために、コンプレックスが悪化し続けていると考えられる。

そう、みなさんもお気づきの通り、誕生日コンプレックスの背景には実は、恋人いないコンプレックスが隠されているということに気づいてしまったのだ…

誕生日がコンプレックスなのではなくて、他のことがコンプレックスになっているとは…ここでリアルな現実を突きつけられる。



コンプレックスがさらなるコンプレックスを呼ぶ


ここまで誕生日コンプレックスについて考えてきて、「コンプレックスにもいろいろな要因があること」、「誕生日以外のコンプレックスも隠されている可能性があること」、そして「望むようなやり方で誕生日を祝ってもらっえないことも原因」ということがわかった。

そして、ここでさらに重要な気づきを共有したい。それは、

誕生日が祝ってもらいにくいことを言い訳に、誕生日に期待を抱きすぎていて、それがつまりコンプレックス(複雑性・こじらせている)になっているのではないか?

ということだ。誕生日を、思春期に望むようなやり方で祝ってもらえていたら、ここまで誕生日を意識することすらなく、祝ってもらえなかったとしても何も思わなかったのかもしれないところを、

思春期の記憶を理由に、誕生日を祝ってもらえないことをより意識せざるを得ない状況にしているのは自分かもしれないということだ。

ここまでの分析を覆すようだけれど、ほんとうはそこまでたいしたことじゃないのかもしれない。



最後に


「日にち編」でも少し触れたが、ここまでの話はそもそも誕生日をひとに祝ってもらう前提になっている

自分で自分の誕生日を祝う(祝う気持ちを持つ)ことができれば、そもそも問題ではないかもしれないのだ。

そう考えると、自己肯定感とも関係しているようで、誕生日って奥深い。

そんなわけで、今年は自分で自分が生まれてきたことを盛大に祝おうと思う。

と言いたいところだけれど、やはり来年以降の人生のために、年末年始を楽しむために誕生日コンプレックスを解消したい(笑)そんなわけで、今年は自分で自分のお誕生日会を開くことにしたのだ。

やっているひともちょくちょく見かけるけれど、「おかげさまで今年もみなさんのおかげで誕生日を迎えられました。」という感謝の気持ちも込めて、わたしがご飯でも振る舞えたらいいかなぁなんてことも考えている。

しかしさすがに誕生日当日、1月2日に開催して誰も来なかったらコンプレックスが悪化しそうなので別の日に開催することにしたが、「多くの友人に祝ってもらう」という条件を満たすことだけでもコンプレックスが解消するのか?実験してみたいと思う。

(基本的に仲のいい友人だけを招待することにしようと思っているけれど、わたしに会ってみたい変態や、コンプレックスを一緒に解消したいひとがいればコメントください。)


そんなわけで、誕生日がコンプレックスのひとに出逢ったらめいっぱい祝ってあげてください(笑)このnoteが、「誕生日」を考え直すきっかけになったら。

そして、誕生日がコンプレックスのひとも、そうじゃないひとも、生まれてきてくれてありがとう!よい誕生日を!




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