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ドラマ「逃げ恥」考察:逃げ恥を100回見た女が語る見るべき10のポイント



わたしはTBSドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」(以下「逃げ恥」とする)を、2016年に放送されて以降2020年5月現在までのあいだ、冗談抜きで100回は見てきた。

100回というのは100話という意味ではなく、10話すべて×100回という意味だ。100回見るともう次にどういう展開になるかはわかっているし、セリフもほとんど覚えているので、もしも、もしも新垣結衣の代役をしなければならないということが起きてもできる自信がある。それくらい見ている。

ちなみにわたしは普段はテレビとは全く関係ない仕事をしているが、小さいころから日本のテレビドラマが大好きで、1日最低1時間、年間400時間は見ている。繰り返し見ることもよくあるが、そんなわたしでもここまで見たドラマは初めてだ。


このnoteでは、「逃げ恥」を100回見たわたしが明日5/19(火)からの再放送に合わせて、

「逃げ恥」を見たことがないひとだけでなく、テレビドラマすらあまり見ないというひとにも、そして、一度見たことがあるというひとももう一度楽しめる「逃げ恥の見るべきポイント」を紹介する。

読み終わったあとにはきっと「逃げ恥」を見たくてたまらなくなるはず。



1.「逃げ恥」は社会派ラブコメディである


まず、「逃げ恥」を見たことのないひとにとっては「恋ダンス」の印象だけが独り歩きしてしまって「あぁ、なんか陽気なラブコメディでしょ?」「新垣結衣と星野源が出てるからみんな見てるんでしょ?」というような印象を持っているひとが多いかもしれない。が、大間違いだ。

まず「逃げ恥」は「社会派ラブコメディ」なのだ。晩婚化、シング家庭の貧困や大学院卒の就職難、LGBTへの偏見、女性の家事負担…などなど、2016年という時代を反映するあらゆる社会問題を、物語に馴染むかたちで触れている。

それゆえ、見るひとたちが何かしらの当事者として、共感しやすい


多くの作品で当たり前のように描かれるのは、「両親がいて子どもが2人くらいいて一軒家に住んでいる」という家族像。しかしそれは多くのひとにとっての「普通」ではない。

子どもがいないカップルや同性同士のカップルで暮らしているひともいるし、お母さんと子どもで暮らしている家だってある。

むしろ「両親がいて子どもが2人くらいいて一軒家に住んでいる」ような家庭のほうが少ないかもしれないのに、それが「普通」として描かれると「自分は普通ではないのかもしれない」と心のどこかで思ってしまうだろう。

そこを「逃げ恥」では、そのような生活を日本という国で当たり前に起きていることとして描いているのだ。

特に、ゲイである登場人物にフォーカスがあたるシーンでは、「日本社会でゲイとして生きていたら困るだろうな」ということを描いていて、逆に偏見を少しでも持っていたひとにとってはぐさっと刺さるような内容になっているので注目したい。



2.新しい恋愛観の提案


上で書いたような社会背景を反映しつつ、「逃げ恥」ではこの時代だからこその新しい恋愛観を提案している。

「逃げ恥」を見たことのないひとのために説明しておくと、新垣結衣演じる主人公の「森山みくり」が、星野源演じる「津崎平匡(ひらまさ)」の家に家事代行をしに行くようになり、それがきっかけで「お金を払って家事をしてもらいながら一緒に住む」というかたちの契約結婚をするとこから物語が始まる。

その「契約結婚」という新しい恋愛のかたちが、今の時代を反映していて、すごく自然に思えるのだ。


というのも、結婚がお見合いだった時代は、親が紹介するひとと結婚せざるを得なかったが、逆に自分で相手を見つける必要がなかった。

そして、高度経済成長期になると、服やゲームなどの娯楽も、みんな同じものを身に着けていたり持っていたりしたように、恋愛も同じで、例えば男性なら「お金があって車を持ってて社会的地位がある」というような、共通する「いい男」「いい女」の概念がきっと今よりもあったのだと思う。

しかし、2000年代を過ぎたころから、それぞれの好みや趣味も多様化し、みんなそれぞれ個性を表現できるようになった半面、こと恋愛においては「自分に合う相手を探す」ということがすごく難しくなったのだと思う。(それにより「マッチングアプリ」も普及したと言えるかもしれない。)

だからいっそのこと(選ばなくてもいいように)「契約結婚」しまう、という選択肢もありなのではないか?ということだ。



3.本質的な恋愛の追求


そして、以前noteにも書いたのだが、「逃げ恥」は「恋愛3.0」だと思っている。

これはわたしが勝手に考えた概念だが、まず「恋愛1.0」というのは壁ドンしてキスしてくっついて終わり!とか、かっこいい=すき!といような、好きになる理由がビジュアルや性的な興味だけ、というような恋愛のこと。(言い方は悪いけれど。)

そして「恋愛ドラマ2.0」は、きっかけは1.0と同じようにビジュアルの好みだけれど、その奥に人間性への興味を見出しているもの。

そして「恋愛3.0」はそもそもきっかけがビジュアルの好みや性的な興味ではなく、人としての相手への興味、そして目の前の人を愛そうとする意思や努力だ。


新垣結衣演じる「みくり」は、星野源演じる「平匡(ひらまさ)」のことを、はじめはたぶん異性としても人としてもなんとも思っていないところから、一緒に過ごすなかでネガティブな側面も、逆に好感が持てる側面も知ることで、徐々に平匡という人間に興味を持っていく。

というのも、恋愛1.0の場合、きっかけが性的な興味だった場合、それが薄れてしまえば恋愛関係も続かなくなるので、関係性を深めようとしたときに上手く行かなくなる可能性が高い。でも、人として愛することができれば、関係性は続く。

この価値観はおそらくわたしの主観ではない。というのも、作品全体を通して視聴者に伝えているのがわかるシーンが他にもあるのだ。

みくりの母のこんなセリフがある。

運命の相手ってよく言うけど、あたしそういうものいないと思うのよ。〔…〕運命の相手に、するの。意思がないと続かないのは、仕事も家庭も同じじゃないかな。

人として愛するということがなんなのかを描いているのだ。「関係性」は「逃げ恥」のなかでも重要なワードかもしれない。


まとめると、「契約結婚」は突飛なように見えて、結婚相手を選ぶのが難しくなったこの時代に、いっそ結婚・同居してしまってそのうえで目の前の相手を意思を持って愛する、という新しい恋愛観の提案なのではないかと思うのだ。



4.何度も噛みしめたい、秀逸なセリフたち


「3.本質的な恋愛の追求」の章でもみくりの母のセリフについて書いたが、毎話鳥肌が立つような考え尽くされたセリフがいたるところにちりばめられている。わたしが一番好きなセリフが、1話に出てくるこちら。

誰かに、選んでほしい。
「ここにいていいんだ」って、認めてほしい。
それは贅沢なんだろうか。
みんな誰かに必要とされたくて、
でも上手くいかなくて、
いろんな気持ちをちょっとずつ諦めて、
泣きたい気持ちを笑い飛ばして、
そうやって、生きているのかもしれない。

誰もがきっと一度は感じたことがあるはず。とはいえ、劇中にストーリーと合わせて、そして、新垣結衣の声で聴くことで本当のよさがやっと伝えられるので、ドラマを見てぜひ味わってほしい。



5.全員が主役


多くの人が、新垣結衣と星野源というビックスターを起用していることからふたりが主役だと思いがちだが、確かにふたりは主役ではあるが、それ以外がモブキャラかと言えば決してそんなことはない。

むしろ、普通のドラマの主役よりもその特徴が丁寧に描かれている。

例えば、平匡の同僚の「風見さん」は、イケメンがゆえに女性から「風見君とは釣り合わない」と言われ経験や、本当に好きでしている振る舞いも「(イケメンで自信があるから)勘違いさせようとしているんだ」と思われたりすることから、ドライな恋愛観になってしまいる、という人物だ。

普通のドラマで、いわゆるモブキャラの恋愛観がここまで、過去のトラウマまで一緒に描かれることなんてそうそうない。でも、そこまで描かれているからこそ、見るひとは自分に似ている登場人物に共感することができるのだ。



6.いかに違和感なく見れるか


わたしが考えるいいドラマの条件は、いかに違和感なく見れるかだ。「リアルさの追求」ともいえるかもしれない。

「どういうこと?」「普通に見れるけど?」と思う人もかもしれないが、例えば、恋愛ドラマで主人公が道端で偶然好きなひとに会う、といようなシーンが劇中に何度も登場して「そんなに偶然会わんやろ!?」と思ったことがないだろうか?

つまり、「違和感なく見れる」というのは、「そんなこと普通起こらんやろ!?」みたいなことが起きないということ。

明らかにフィクションのドラマは、もうフィクションとして見ているので問題ないのだが、日常的な出来事が繰り広げられるドラマなのに日常的に起きないだろ!?ということが繰り返されると萎えてしまう、ということだ。


「いやいや、契約結婚自体がめちゃくちゃあり得ないしリアルじゃないだろ!」と思った方もいるかもしれない。

しかし、「みくりが突拍子もない提案をする」という背景説明がそれ以前にあり、かつ「それは父譲り」で、「定年を迎えたみくりの父はみくりが契約結婚の提案をする前に突拍子もなく館山に移住する」というエピソードがある。

加えて、みくりが友人と主婦の家事分担の話をしているときに、「家事が仕事になったらいいのに」と思ったことも、契約結婚の提案の背景にある。

つまり、「定年なら移住するのも違和感がない→ 突拍子のない父譲りの突拍子のなさ突飛な提案をすることは不思議ではない→ さらに友人と家事の話をしていたのを思い出す→ 契約結婚を提案するのは自然」となる。

伏線に伏線を重ねて違和感がなくなるまで考え尽くされているのだ。

仮に「契約結婚」を多少リアルじゃないなと感じたとしても、「契約結婚」という物語最大のリアルじゃない出来事が1話目に出てくるので、それを受け入れてしまえばそれ以降は違和感なく見れるのだ。


そして、これには「5.全員が主役」で書いた、登場人物の過去や特徴を丁寧に描いていることも関係している。

というのも、登場人物を丁寧に描けば描くほど、その登場人物の行動パターンが理解できるので、それに沿った言動をしていれば、「その経験があってその性格ならそうするよね~」と見ているほうも違和感なく展開していく状況を受け入れられるのだ。


最近になってようやく、海野つなみさん原作の漫画を読み、ここまで書いたように緻密なストーリーやセリフに感銘を受けたが、

とはいえテレビドラマだからこそ、実現できていることも多くある。なので、ここまでは物語としての魅力について語ってきたが、ここからは映像作品としての魅力を紹介したい。




7.セリフで言わせない


これまた、わたしがいいドラマの条件だと思っているのが「セリフで言わせない」ということ。

例えば、主人公が奥さんと喧嘩したことがきっかけでなにか次の展開があるとして、「奥さんと喧嘩したんですよね?」誰かにわざとらしくとセリフで言わせるのではなく、「お弁当のおかずの数が減ってるのを映す」とか、その映像のあとで初めてセリフとして言わせる、というようなこと。

ドラマを見ていて、背景説明を無理やりセリフで言わせているという感じがして冷めた経験があるひともいるのではないだろうか?ドラマは(当たり前)だが映像作品なので、いかにセリフで言わせずに写すかが、いいドラマの鍵だと思っている。

そして、これを「逃げ恥」では秀逸に守っているのだ。


一般的に語られる「逃げ恥」の魅力のひとつに、「パロディ」がある。いきなり情熱大陸のパロディから始まり「なんでも鑑定団」や「朝まで生テレビ」など、幅広い年代のひとが楽しめる番組のパロディを随所に盛り込んでいるのはテレビドラマとしてみんなが楽しめる素晴らしい工夫ではあるのだが、

これのすごみは実は「セリフで言わせない」に関係していると思っている。普通なら無理やりセリフで言わせないと状況説明がしにくいシーンも、番組のパロディという「違和感」のなかで状況説明をすることで、逆に違和感なく見れるようになっていると思うのだ。



8.詩のようなメタファー


そして、「7.セリフで言わせない」に関連して、「逃げ恥」にはいくつかのメタファーが映像に隠されている。

例えば、「月」。普通は、単に夜であるということを示すために映される「月」だが、「逃げ恥」においては、みくりと平匡の関係が良好なときは満ちている月が、関係が上手く行っていないときは欠けている月が映されるのだ。

また、ふたりがご飯を食べているシーンがほんとうにたくさん出てくるが、ふたりの関係性が良好なときはふたりのご飯を食べる動きが同じタイミングになっていたりもする。

このように物語のなかで伝えるべき抽象的なことを、メタファーを映すことによって伝えるというとても高度な映像の撮り方をしているのだ。

「月」以外にも様々なメタファーが登場するので、ぜひ見つけてみてほしい。



9.多用されるアップのシーン、試される演技力


「逃げ恥」はアップのシーンを特徴的に多様している。これまたアップのシーンが多いとなにが起きるかと言うと、細かい表情に着目せざるを得なくなる。

普通のドラマだったら笑っているのか泣いているのかくらいの大雑把な表現しかされないことも多いけれど、「逃げ恥」では同じ「笑う」でも「穏やかに微笑む」のと「明るく笑う」のと「にやにやしている」のと…という風に、口角が片方だけ上がっているぐらいの表情の差や、

「なんかモヤモヤしている感じ」、モノローグが入っているときにどんな顔でどこに視線を置いているのか、という微細な表情までもを表現しているのだ。

そしてそれに対応できる演技力、特に新垣結衣の表情の演技にはぜひ注目してほしい。 

はじめは無表情の平匡(星野源)の表情が、ストーリーが進むにつれて穏やかになっていき、その表情からもふたりの関係性の変化がうかがえるのは見物だ。




10.今までのテレビドラマにはない!?モノローグの多用


そして、見るべきポイントの最後は、モノローグを多用していること。これは、わたしが「逃げ恥」を100回も見てしまった最大の理由と言っても他ならない

そもそもモノローグとは、「登場人物がひとりで独立したセリフをいう演出・表現、およびそのセリフ」のこと。セリフがない、例えば登場人物が歩いているだけのシーンなどに、その登場人物が歩いているときになにを考えているかというのを、それを演じる役者の声であとから入れているような演出のこと。

(この手法は、「逃げ恥」以前のテレビドラマではあまり見たことがなく、「逃げ恥」以降に一般的に使われるようになり、テレビドラマの手法として転換期にもなっているのではないかとわたしは分析している。)

モノローグがあると何が起きるかと言うと、そのことが起きてる時にそれぞれの主人公が何を考えているかを表現できるようになるということだ。

これにより、「5.全員が主役」でも書いた登場人物の心情をより綿密に表現でき、自分もこういう状況のときこういう気持ちになるなぁというのを、「疑似体験」できるのだ。

普通ドラマや映画を見ているときは、登場人物の感情が変化するのに合わせて同じような状況を思い出し、感情移入していることが多いが、

「逃げ恥」においては、登場人物のトラウマや思考特性までが描かれているので、同じようなトラウマを持つ自分を登録人物に重ね合わせて、登場人物が救われるのを見て自分も救われるような気持ちになるのだ。いろんな寂しさや孤独を救ってくれるのだ。

そう、きっとわたしは救われていたんだと思う。何度も、何度も、このドラマに。


わたしは新垣結衣演じる主人公のみくりに、自分を重ねていたのだ。

主人公のみくりは、よく言えば批判的な思考をもって新しいアイディアを考えられる、悪く言えば前提を覆してくることもある「小賢しい」やつ。そして、誰にも必要とされないんじゃないかという想いを抱いている。

そして、わたしもまったく同じような特性を持っていて、誰かに必要とされたいと願っている。

そんなみくりが、10話を通して、小賢しくても誰かの役に立てる・誰かにとって大切な存在になっていく様子を見て、自分の寂しさを埋めてくれるような、そんな経験を見るたびにしているのだ。思い返せば、落ち込んだ日の夜寝る前に、気づくと「逃げ恥」を見ていた。


わたしはみくりだったけれど、同じように多くのひとが、特徴的に描かれる登場人物に自分を重ねて同じように救われるのだと思う。

以上が逃げ恥を100回見たわたしの考察だ。



最後に


ここまで読んでいただいた方(本当にありがとうございます)のなかには、普段あまりテレビドラマを見ないひともいるかもしれない。

いつも同じ視点で見てしまっている人がほとんどで、こんなテレビドラマの見方があるのか!と思ってくれた方ももしかしたらいるかもしれない。

確かに、映画に比べて俗世的な要素はあるかもしれない。けれど、いいドラマはちゃんと物語としても映像作品としても優れているし、誰かを救うことだってできる。誰かにとっての人生に残る作品だったりする。

わたしは長い文章を読むのが苦手だし、長い間なにかにひとつのことに集中していることもできない。そんなわたしみたいな特性のひとにとって、映画と違って1時間弱×10話という形式で毎回いいところで終わるテレビドラマは、かけがえのない媒体なのだ。

そして、好きなドラマが放送されているクールは、そのドラマを心待ちにして1週間過ごすことができるのも、テレビドラマの魅力だ。


わたしはこの「逃げ恥」考察によって、わたしが100回も見た逃げ恥というドラマのよさを伝えたかったのはもちろん、本や映画よりも俗世的で評価されにくいテレビドラマの魅力や豊かな見方をお伝えしたかったのだ。

このnoteが「逃げ恥」をより楽しむきっかけに、そして、日本のテレビドラマの発展と、みなさんがテレビドラマを楽しむきっかけになったらうれしい。



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