小説『水蜜桃の涙』
「第9章 輝子の帰宅」
「輝子さん、こんにちは。初めまして。入ってもよろしいかしら?」
離れの部屋に案内された桜井さんと律さんは、初めて見る人間がいきなり入ると輝子が驚いてしまうと思い、まずは様子を確かめたようだ。
僕も少し離れた場所で、彼女たちのことを見守っていた。
「私たち、東京からあなたのことを助けに来たのよ。どこも痛かったり気持ちが悪かったりしていないかしら?」
律さんが優しい口調で語りかけている。
そう言ったとたん、輝子が少し身じろぎしたようだった。しかし輝子は何もしゃべろうとはしない。
桜井さんたちは輝子がさほど嫌がる風には見えないので、そっと中へ入っていき輝子の隣に座り、手を額に当てたり背中をさすったり掌を握ったりと体調を診ているようだった。
「少しお話できるかしら?」と再び話しかけるが、輝子は首を横に振り口を開こうとはしない。
「ええ、大丈夫よ。今は何も話さなくていいわ。まずは、どこか具合が悪いところがあるようだったら首を縦に、なかったら横に振ってくれる?」
桜井さんは焦らず、あくまでも輝子の様子を見て大事なことを尋ねている。
輝子は首を横に振っているので、とりあえずは特別支障がなさそうである。
「じゃあ、立って歩けるかしら。これからここを出て、まずはあなたのご両親の家に送って差し上げようと思うの」と桜井さん。
すると、輝子はゆっくり首を縦に振ったようだ。そして、壁に手をつき体を支えながら立ち上がり、部屋を二、三歩歩いて見せた。
「どうにか大丈夫そうね。でも大変な目に会ったわね、かわいそうに。若いから回復も早いのかしら。
でもね、もう少しきちんとお医者様に診てもらった方がいいと思うの。これからあなたのご両親にお会いして、一度東京のお医者様に診てもらい、向こうでゆっくり静養できるようにお願いしてみるのだけれど、輝子さんはこの村を当分の間離れても大丈夫かしら?」
簡単にだが、桜井さんは今後の予定について話してみたようだ。やはりたとえまだ子どもであっても、まず一番に輝子本人の意向を無視するわけにはいかない。さすがに親と離れるのは寂しいはずだから。
輝子はやや長めに考えているようだった。そりゃあ、そうだろう。誰も知らない人間ばかりのところで暮らすなど、子どもの輝子には想像もできないに違いない。
「私は東京から来た書生さんの知り合いなの。輝子さんより四歳くらい年が上だけど、お友達になりたいわ。だから、向こうでも話し相手になれると思うの。どうかしら?」
律さんが僕の方を指して話す。すると、輝子も久しぶりに僕のことを見て驚いたようだった。手を口元に当てて、目を丸くしている。
まだはっきりとは決められないようなので、桜井さんたちは一旦輝子を外に連れ出してみて、実家までは歩けそうだと見極めたようだ。
「まだゆっくり考えていていいのよ。ただお医者様にだけはできるだけ早く診ていただきたいの。その後のことは、決めるのはもっと先でいいわ。突然の話ですものね。戸惑うのは当然よ」
親切な人間たちが突然自分の前に現れて、やはり相当驚いているようだった輝子だが、実家に久々に帰ることができると聞いて、一瞬だが明るい表情になったが、すぐにまた暗い表情に戻った。
教授たちはというと、どうやら頓挫してしまった中学校設立の件で話し合いをしているようだったが、まだあまり芳しい話を伊ケ谷氏からは聞けないでいるようだった。
これもゆっくりと次の機会を待たないとならないだろう。教授にとってはなかなか受け入れがたい話だったから、大変残念に思っておられるようだったが仕方がない。
伊ケ谷氏としても、今回の件をしっかりと整理して身の回りをまっさらにしておく必要があるのだろう。
いい方向に向かうことを祈らざるを得ない。
さて輝子の実家へ帰ることになったので、とりあえず輝子は伊ケ谷氏を前に挨拶をせねばと彼を前にしたのだが、怯えているのか震えて声も出せずにいた。そのような姿の輝子を見るのは本当にかわいそうで、伊ケ谷氏も優しい言葉をかけてくれればいいのに、
「これまでしっかり面倒はみてやったのだから、あまり恨むことはするなよ。お前の家にも慰謝料代わりとして支援をしてあげているのだ。破談は残念だが仕方がないからな」
などと、まだ幼い少女には冷たい物言いである。
輝子は震えながらもちゃんとお辞儀をして、伊ケ谷邸を出て行った。
そのまま輝子の家に話をつけに、村長もついていった。その方がおそらく話が円滑に進むことを見越してのことだ。輝子の今後について桜井さんが両親に詳しく話し村長からも口添えしてもらった。
輝子の親は伊ケ谷氏からの支援のこともあり、輝子が破談になってもどうにか暮らしていく分には困らないのだろう。
経済面ではあまり深刻には見えなかったが、やはり娘が負わされた苦難は親としても心配だったのは確かで、輝子を見るなり涙を流して抱きしめながら迎え入れた。
娘の体を労わる両親にとって、東京で医療を施すことは思ってもみない話ではあったが、その方が安心だということは理解しており、その間離れ離れになることだけが悲痛なのだった。
「ご両親にはとても寂しい思いを再びさせてしまうことになり申し訳ありませんが、病院で診てもらい完全に回復したと断定出来たら、預かっていただく施設でも高度な教育を受けることが可能です。中には優秀な子どもさんが海外へ留学まで果たした事例もあると聞きました。きっと輝子さんもその才能を発揮されることと思います。
輝子さんの場合は特殊ですから、このまま村に居続けることの方が心労が絶えないと思われますので、村を離れてから今後の教育を受けられた方がよろしいかと。
もちろんこのような施設は身寄りのない子どもたちのためにできたものですから、費用などの心配は要りませんが、寄付などで賄われているようですので、せめて米などの仕送りをしていただくと施設の方も助かると思われます。それでもすべては輝子さんが納得されてのことです。無理強いはいたしません」
桜井さんはそう言って輝子の方を見て、返事を聞きたそうにしていたが、ここまで輝子は一言も発していなかった。全員がじっと輝子が口を開くのを待っていたが、なかなかしゃべろうとはしなかった。
不審に思った桜井さんと谷口教授は何やら小声で話しておられたが、
「輝子さんはどうやら今回のことでかなりの衝撃を受けて、発語が困難になっておられるようです。いろいろな条件が重なっている可能性もありますし、これはますます東京で専門医師に診てもらった方がいいですな」
こう述べられると、聞いていた輝子の両親は驚き、
「輝子!輝子!どうしたんだい?何でもいいからしゃべってみい。ちょっとでも声はでるんだろ?」
急かしてみるが、輝子はそもそも口を開こうともしないのだ。
「お父さん、そう無理やりにはしゃべらせない方がよろしいです。気持ちの問題だと思いますので、きっと良くなっていずれ落ち着いたら声が出せるようにはなると思いますから」
何と言うことだろう。この村へ来て、いまだ輝子のあの涼やかな声を聞いていなかった。
ここまで彼女を苦しめていただなんて、本当にあの伊ケ谷親子はなんてことをしてくれたのだ。
あえて言わせてもらうならば、いろいろなしがらみがなければ警察に訴えてもいい内容の事件なのだ。
それなのに、あの別れ際の言葉のなんと冷たくてひどいものだったか。
そのとき、輝子は身振り手振りで何か書くものを必要としていることを訴えた。
そして書いた内容は、「今夜は家で寝たい。でも医者に診てもらわないといけないなら、明日はついていく」
とのことだった。
何ともかわいそうである。早くも親元を離れなければならないのは辛いことだろう。しかしあのまま伊ケ谷邸にいた方がもっと心も体もきつかっただろうから、まだましな方だと自分でも納得したのだろうか。
彼女の望み通り今夜は実家で休み、それには桜井さんと律さんが一緒に宿泊させてもらうことにはなるが、それもご両親には承諾してもらった。
やっと話が終わり、輝子の妹や兄弟たちが襖を開けて入ってきて、輝子との再会を喜んだ。
いっときの家族団らんで、やっとこの家が明るさを取り戻したようだ。
僕と教授は村長の家に宿泊させてもらうことになった。
教授の家には、教授自身は暮れから三が日にかけて戻っておられたようで、お兄さんご夫婦にそう何度も負担をかけるのが申し訳ないともおっしゃっておられたが、村長と今後の話もじっくりしたいということも理由のひとつであったようだ。
村長も中学校設立にいよいよ本気になり始めていた矢先の頓挫に、かなり口惜しい様子であった。
どうやら周囲に相当自慢がてら話をしていたらしいので、自分の責任ではないにしろ残念がっているようだった。教授がぜひまた話を進めてもらいたい旨を話しておられたが、少し先になってしまうのだろうなと半分気落ちしておられるようだった。
それはともかく、輝子はいったい話せるようになるのかどうか、そちらの方が僕としては目下の心配の種である。よほどの心の痛みが伴っているのだろう。
短い時間の間に、誰も経験しようもないことが立て続けに起きたのだからもっともなことなのだ。
早く医師に診てもらい落ち着いて療養できるよう、桜井さんや律さんにお願いするしかない。
明日になったら、もしかしたら良くなっているのかな。
そうなっていればいいな。
そう願って、村長の家で心配しながらも眠りについたのだった。
第10章に続く
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