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荀子 巻第四儒效篇第八 10 その1

今回は大儒の話です。早速読んでいきます。

造父ぞうほなる者は天下の善く御する者なるも、輿くるまと馬と無ければ則ち其の能をあらわす所なし。羿げいなる者は天下の善く射る者なるも、弓と矢なければ則ち其の巧をあらわす所なし。大儒なる者は善く天下を調一する者なるも、百里の地無くば則ち其の功をあらわす所なし。

(「荀子」岩波文庫 金谷治訳注)

調一→整えて一つにすること。
功→すぐれた働き。りっぱな仕事。てがら。
拙訳です。
造父ぞうほという人は御者の名人だが、車と馬がなければその能力を発揮できない。羿げいという人は弓矢の名人だが、弓と矢が無ければその巧みな技を発揮できない。大儒という人は天下を整えて一つにすることができるが、治める百里の地が無ければそのすぐれた働きを発揮できない。』能力を発揮するには、道具や場所等が必要と言うことですね。少し端折って続きを読みます。

彼の大儒なる者は窮えん(巷)漏屋に隠れ置錐の地も無しと雖も而も王公すらこれと名を争うこと能わず。百里の地を用うれば千里の国も能くこれと勝を争うことなく、暴国を笞捶こらしめ天下を斉一して而も能く傾くるものし。是れ大儒のしるしなり。

(同)

窮閻漏屋→大通りの裏にある荒れ果てた家のこと。
置錐の地→ほんの少しの土地のこと。 または、ひどく狭い空間のこと。
斉一→物事が一様であること。ととのい、そろっていること。また、そのさま。
徴→しるし。あらわれ。あかし。
拙訳です。
『大儒は大通りの裏にある荒れ果てた家に隠れほんの少しの土地さえ持っていなくても王公ですら名声を争うことが出来ない。もし大儒が百里の地を治めれば千里の大きさの国が争っても勝つことはできず、乱暴な国を懲らしめて天下を一つに整えしかも誰もゆるがせることができない。これは大儒の証である。』
この後大儒のすごいところ、
言葉には法があり、行いには礼があり、行って悔いる事はなく、変には宜しく対応し、時の変化など世の中は変わっても道は一つとする、
が説明されています。少し端折って続けます。

通ずれば則ち天下を一にし、窮すれば則ち独り貴名を立て、天も死せしむること能わず、地も埋むること能わず、傑・跖の世もけがすこと能わず。大儒に非ざればこれを能く立つること莫し。仲尼と子弓とこそ是れなれ。

(同)

貴名→すぐれている、りっぱだという評判。
拙訳です。
『(大儒が)為政者となれば天下を一つにして、貧窮すれば独り立派だという評判を立て、(大儒を)天も殺すことが出来ず地も埋めてこの世から消すようなことができず、暴君桀や大泥棒の跖の世であっても汚すことができない。大儒でなければこれらを成り立たせることはできない。孔子と子弓こそがこの大儒である。』
大儒のすごさをこれでもかと並べた後に、その大儒とは仲尼と子弓だ!と言い切っています。ここ素敵です。
端折った部分含めてこれでもかという大儒称賛説明に「口では何とでも言えるけどそんな人・・・」と思ってしまった僕の心を見透かしたように、「それが孔子と子弓だ!」と言い切られて、「そんな人がいたんだ。」と絵空事が現実に切り替わり身近になり、目が覚めました。
子弓は以前(巻第三非十二子篇第六)も登場していますが、荀子の中でしばしば孔子とならんで尊敬される謎の人物です。謎というところに惹かれます。

続きは次回にします。

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