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3分、ラーメンの幸せと

ただただひとつ願いごとが叶うなら、美しく生まれ直したい。
 毒親でもいい、ひどい対人関係に悩んでもいい、致命的に頭が回らなくてもいい。一目見て瞬時に美人だと判定されるような顔が、見た目が欲しかった。

物心ついたときから、この願いはずっと私の一番に君臨し続けている。人為的でならいくらでも変えられるかもしれないが、そうではなく「生まれつき」の美しさが欲しいのだ、私は。どうしても。途中で努力と金の力で得た美しさもすばらしいとは思うけれど、それが欲しいわけではない。醜いルックスゆえに見なければならなかった世界とは無縁の美が欲しいのだ。

だからこれはもう死ぬまで手が入らないものだ。欲しくても、絶対無理なもの。今から整形したとしても生まれつきのそれは時間を遡れない限り無理だ。

自分の人生が暗くよどんでいる一番の理由は親からの虐待でも周りの人間に踏みにじられたからでもない。それらはあくまで二番目以降の理由であって、一番は自分の醜い容姿が原因だ。

鏡をのぞけばそこにいる。不気味な表情を浮かべている私。あちこちの歪みから、誰もが一瞬こまった表情を浮かべてしまう、それを隠そうにも失敗してしまう不穏な顔立ち。

単純に醜いだけではない。笑いの様子がそこにあるなら救われたのに、朗らかで穏やかな雰囲気は皆無で、不条理と理不尽を詰め込んだようなパーツがだらしなくたるんだ輪郭に雑に詰め込まれている。

残念ながら親族に醜い顔の人間が誰もいないことが私の不幸に拍車をかけた。私を虐待し続けた両親は普通以上、母にいたっては美形の部類だった。だから醜い人間の呼吸ができないような生きづらさが全く想像できない人だった。

毎日鏡を見たくない。学校に生きたくない。なぜなら自分が醜くて、その醜い自分を誰かに見られて、その誰かが「あいつは醜いから見下していい」と瞬時に判断するから。それを表情の端々から感じるから。

終わることない蔑みが延々と続く毎日。地獄。

だからせめて痩せたらどうにかなるかもしれないと、あるときから食べて吐くようになった。母は私が吐いた後のトイレに入って、酸っぱいニオイがすると顔をしかめた。排水溝に汚いものが溜まっていてコバエが発生しているの、と美しい顔で困った表情を浮かべた。そして私は病院に連れていかれ、頭がさらにおかしくなる原因となった薬を飲むことに。

そんなことで食べ吐きがなくなることなんてない。だって原因は自分の顔なんだから。

食べて吐く。食べて吐く。食べることは大好き。だから大好きなものをたくさん食べて幸せな気持ちになって、一気に吐く。

その中で一番好きだったのは日清のカップヌードルだった。そもそもラーメンが大好きだったけど、カップヌードルの麺は普通の麺とは違って柔らかく、飲み込みやすい。そして、いったん飲み込んでも、とても吐きやすいのだ。

カップヌードルが出来上がるまでの3分間はたぶん、それまでの人生で一番幸せな時間だった。おいしいおいしいヌードルが私を待っている。出来上がったら一気に食べて、間一髪入れずトイレへ。少しだけ吐いたら、喉から出た麺の束をつかんで引き抜くと一気にずるりと吐けるのだ。その手軽さも相まって、カップヌードルが大好きだった。

不幸も絶望も不快感も屈辱も何もかも全て胃の中に納めて、溶けて吸収される前に吐いてしまったら、プラスマイナスゼロにできる気がした。唇にふれたふやけた麺の感触だけが私に優しかった。この心地よさは私の不幸と醜さから生まれたもの。

食べて食べて食べて、吐いて吐いて吐いて、唾液腺が腫れて顔だけが醜くむくんで腫れている。視線の先にいる美しい人々は美しい自分たちと同じような人々を選んで美しい子どもを生んで、幸せや不幸を噛み締めて「自分で良かった」と思い死んでいく。

醜いから諦めたことがたくさんあった。何をしようにも醜い自分じゃ似合わないと諦めたことたち。無駄な想像力で、「今私がそこに立っていたら」をすぐに思うかべてすっと萎えていく高揚感。絵にならないどころか、醜さですべて台無し。そんなことの連続。

だから美しい顔の男を好きになることはなかった。隣に似合わないから。ときめくことすらなかった。だって隣に私がいたら不気味でしょうから。美しい彼らの隣にいるべきは美しい彼女たちで、私はその世界には存在しない。

存在しない私は愛するカップヌードルを食べて吐いて、それを布団代わりにぐるぐる巻いて眠りに落ちてもう二度と、目覚めたくはない。

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