松本とコンプライアンスとテレビ
フジが「人権意識」というのがおもしろいね。
昨日、妹との長電話で、松本問題について話してたんだけど、彼らの笑いというのは、たぶん初めは「タテマエ、綺麗事文化のタブーに挑戦する尖った笑い」という認識だったのだろうけど、結局、「いじり」と称する「弱い者いじめ」の笑いになってしまった。まあ、その根底には「何真面目ぶってんねん」という大阪の文化があるわけで、吉本の東京進出によってそれが全国的に拡大された、という指摘が最近ポツポツ出つつある。その頃が、フジテレビの全盛期でもあったわけだ。
関西(特に大阪)では、昔から「真面目」の評価が低いから、いじめられる方も「被害者」と認識されるとみじめで恥ずかしいから、「いじめとちゃうねん。いじりやねん」と許容する姿勢を取らざるを得なかった。
ところが、時代が移り、世の中では学校のいじめとかパワハラ、セクハラが深刻な問題になって行き、学校でも人権に関する教育が強化されて行く。その事もあいまって子供や若者の感覚が急速に変化していく。
コンプライアンス云々以前に、21世紀以降あたりから、若者たちは「いじりの笑い」をおもしろがらなくなったし、むしろ拒否感さえ持つようになっている。これは、学校の人権教育によるものだけではないと思う。たぶん、80年代、90年代には、「いじる(いじめる)側」に立てる可能性が誰でもあったし、それがヒーローとされる空気もあったのだが、21世紀の若者は、圧倒的に「いじられる(いじめられる)側」の存在として自分を認識するようになった点が大きいと思う。
そういった若者視聴者の変化の一方で、なぜかテレビ村では相も変わらず「いじり文化」が大手を振っていた。「これが尖ったかっこいい笑いなのだ」という制作者側、出演者側の思い込みによる閉鎖社会の常識が、一般社会の感覚と大きく乖離して行ったのは興味深い。社会ではとっくに「いじめダメ、絶対」になっていたのに、テレビだけが旧態依然の「いじり(いじめ)の笑い」の番組をやり続けていたのは何故なのか?
「コンプラコンプラでテレビが面白くなくなった」という説が、相変わらず芸人やテレビ評論家によって語られるが、世の中はとっくにコンプラ社会になっているのだ。自分たちがダウンタウン時代に取り残されていることにどうして気づけないのか?
畢竟、「テレビがおもしろくなくなった」というより「テレビが古くて遅れていて、時代について行けてない」のだ。
だから、ネット、YouTubeの影響はもちろんあるにせよ、時代遅れの「古い笑い」の世代の作り手を駆逐すれば、テレビが再生できる可能性は十分あるのではないか?
そんなおしゃべりを妹様とぐちゃぐちゃやっていた。
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