オリンピックって「平和の祭典」だったんですねぇ
スポーツを敵視するつもりはないですが、スポーツを美化する風潮には疑問を感じ続けています。
私にとっては高校野球。中学生の頃からあれのあり方には非常に疑問を感じていましたね。私にとっては、高校野球は「24時間テレビ」とおんなじです。(24時間も27時間も一度も見たことがありません)
「平和の祭典」という呼び名もどうなんでしょうか? 古代オリンピックの「休戦」の歴史から来ているようですが、近代オリンピックとは無縁でしょう。
言うまでもなく、ベルリンオリンピックはナチスの祭典でしたし、ここまで騒がれるのは「国威発揚」故でしょう? 国単位の参加システムや国歌国旗の扱いなどの問題もあります。それらを廃止してオリンピックが成り立つのでしょうか?
「オリンピックやワールドカップは代理戦争だ」という見方もあります。それを前提として、もし実際の戦争が防げるのなら、それなりに意味もあるかとは思いますが。
オリンピックに限らず、正直言って、スポーツや体育に対する偏見は私の心の中に根強くあります。
若い頃は「スポーツ選手なんかみんな脳筋で右翼だ」と公言してましたが、最近では少し丸くはなりました。ただ、やっぱり教師をしていると、体育や体育教師のあり方に違和感を感じることは今でも多いです。
教師に成り立ての頃、日大出身の体育教師が、「全共闘をボコボコにしてやった」と武勇伝を語っていたことは忘れられませんし、最近でも、年度当初の体育の授業で、軍隊式の絶叫型挨拶を強要する指導の声が体育館から聞こえてきて、眉をひそめていたところ、同僚の女性体育教師(穏やかで常識のある人)が「やっと声が出るようになってきたね」と笑っていたのには辟易しました。
自衛隊や警察や消防や不動産会社などのパワハラ、セクハラ体質は、そのまま体育会系学生OB、OGの体質ですからね。
その意識がある以上、彼らの活躍に心の底から感動したり、涙を流したりすることはあり得ません。
私事で言えば、学校組織というのが、基本的に「体育会系的体質」であることには絶望を感じますね。正直、その点では「仕事を間違ったかな」と思い続けています。
幸か不幸か演劇部をやってるとよくわかるんですが、演劇部の冷遇なんかはほんと笑っちゃうレベルですよ。数年前、和歌山の小さな高校が全国大会で優勝したことがあって、その学校のホームページを見たら、「熱中症に気をつけましょう」と並んで、同じ大きさで「演劇部が優勝しました」としか書いてありませんでした。
まあ、「世の中はそんなもんだ」ということはこのトシになるとさすがにわかっていますが、あまりと言えばあんまりですよね。その中で、「野球部がベスト16! みんなで応援しましょう!」なんて言われてもねぇ。(言うまでもありませんが、県予選のベスト16ですよ)
だから、ぶっちゃけ言っちゃうと、オリンピックの将来を憂う気持ちなんか微塵もありません。ただの国威発揚の利権まみれの国家イベントでしょ?「悲劇のヒーロー、ヒロインづらすんなよ」ぐらいに思ってます。
【蛇足】
この「スポーツ」=「体育会系体質」=「軍隊的文化」という繋がりは、私の知る限り、他国ではほとんど見られないようだ。むしろ、スポーツ文化は芸術文化に似ていて、スポーツマン(まだ「スポーツパーソン」じゃなくてもいいんですよね?)は、ミュージシャンのようなアーティスト気質で生きてるように見受けられる。(少なくとも、ヨーロッパ、アメリカでは)よく「野球とベースボールは違う」という議論があるが、これは何も野球に限った話ではないだろう。
この違いは何なのだろうか?
それは、どうも日本における「体育」という授業科目の生い立ちに由来するものらしい。この「体育」というのは、明治政府の「富国強兵」の国策から生まれ、そもそもが予備的な軍事教練の色彩があったらしい。それに加えて、剣道などの武道の文化が加わって、極めてガラパゴス的に成長してきたのが日本の「体育」であるようなのだった。
つまりは、「野球とベースボールは違う」以前に、「体育とスポーツは違う」のだ。
この辺については、聞きかじり程度の知識しか持っていないので、一度きちんと勉強してみたい。
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