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no.20 -坂本龍一という人-

2023年3月28日、巨星が堕ちた。
若輩者の私が、彼に関して書くのは甚だ僭越であるが、メディアを見渡すと画一的なことしか報じられていない。これから色々な人が彼を回顧するであろうが、私から見た坂本氏の音楽家、人としての肖像を少しでも描ければ、と思う。

私の心の師である坂本龍一氏に哀悼の意を表すると共に、感謝の気持ちを込めて書きたい。

私は、1978~1983年のYMOをリアルに体験していない。彼らは私が音楽をちゃんと聴き始めたときには既に「散開」していた。彼らを聴くのはかなり後になってからの再生YMOだった。

1990年代くらいから、私は、坂本氏がオリジナル作品を出したら、常にキャッチアップして聴いていた。映画音楽やコマーシャル音楽はなんとなく耳に入っていたし、彼のインタビュー記事は読み、ラジオや発言にもずっと耳を傾けていた。彼の語ることに影響を受けた一人であるし、彼がいなかったら音楽もここまでやってこなかったであろう。
会ったことはないが、私の音楽の師の一人である。

坂本氏を初めて意識したのは、私が幼少の頃。
忌野清志郎との「い・け・な・いルージュマジック」だった。テレビの音楽番組で彼らが演奏していたのを観ていて、清志郎と坂本氏がキスをしていた。男同士が生番組でキスをしているのに、幼い少年の私はショックを受けた。
それ以上にショックだったのは、その音楽だった。自分の頭の中でグルグルとループして鳴り、ずっと口ずさんでいた。
コードや楽曲は坂本氏が作ったと思うが、アレンジの素晴らしさ、シンセサイザーのコード感、対旋律が自分の耳にものすごく残った。今聴いてみると、JAZZのコード、クラシックの対旋律、ロックのピアノ旋法が複雑に絡み合った音楽だと思う。一般的にニュー・ウェイブといわれる音楽に当たる。

90年代、NHKで、再生YMOを観た。「中国女」に衝撃を受けた。
途中、坂本氏がアドリブをかまして、高橋氏、細野氏がニヤニヤしているのを観て、とにかくかっこいいと思った。
今聴いてみると、デトロイト・テクノのようなアレンジがされていて、初期YMOより洗練されている。彼らは、このときYMOとして演奏したくなく、周囲の知らない人々の金儲けのためにやらされたと、後に振り返っているが、その演奏クオリティは半端ない。
しかも、この東京ドームの演奏は、すべての楽器をMIDIで繋げて同期させる(シンセサイザーなどの電子楽器を全て時間軸で同期させ、自動演奏させたり、複雑な楽曲を演奏させること。現代においては、どのミュージシャンも一般的にやっている。)という世界的にみて先進的な試みも行われた。テクノロジーの先端を先取りする彼らならではである。

スタッフの回顧録によると、リハーサルでは同期が全く機能せず、高橋氏が「ちゃんとMIDI同期できないのならば、公演は中止だ。」というほど切迫していたらしい。本番になって、初めて完璧に同期できてしまう辺りが、彼らは強運だ。

この演奏を観たのがきっかけで、私は坂本氏の音楽をフォローするようになった。

2004年だったろうか、東京恵比寿でsonarsound Tokyoというイベントに、彼ら3人が出演するということを聞きつけ、チケットをとって一人で観に行った。
坂本氏、細野氏、高橋氏の3人の演奏をライブで観たのはこれが最初で最後だったが、この3人が揃うだけで、グルーヴが完成されていることに衝撃を受けた。サポートメンバーの演奏は、そのグルーヴの上に漂っている。

ライブを観て感じたこと。細野氏が「陽」の気を持ち、高橋氏がその気を流し、坂本氏が「陰」の気を持って、気の流れが陰陽で循環している様子を私は目の当たりにした。何か宇宙の奇跡のような現場を目撃したことは今でも忘れない。それが、YMOが人々を熱狂させた理由の一つだったのかも知れない。
sonarsound Tokyoの映像はネットにないが、その辺りのライブ演奏。(sonarsound Tokyoの演奏はDVDとしてあるが、観客として熱狂しすぎた私の声が、ステージ上のマイクに拾われていて、それも驚いた。)

さて、坂本氏の音楽について見てみたい。

まず、彼が成し遂げたことは、電子音楽、テクノミュージックの黎明期に活躍し、わかりやすく日本、世界へ広めたことにある。

YMOは、ドイツのクラフトワークなどの影響を受けながら、
■坂本氏のフランス近代和声、クラシックの対位法、JAZZの素養、卓越したアレンジセンス。
■高橋氏のポップセンスと卓越したドラミングとメンバーの調整力、ファッションデザインを手掛け、ビジュアル効果を上げることで目にとまる存在へと押し上げたこと。
■細野氏のロック、ソウル、JAZZ、ニューオリンズ、ワールド・ミュージックなど様々な音楽をミックスさせた、天才的な音楽センスと、完成されたベース奏法。

これらが渾然一体となり、音楽を電子化することで、汎用性、わかりやすさを得て、世界中に飛び火していった。

音楽を電子化するということは、民族性を薄める働きがある。
たとえば、日本音階を尺八で吹くと、朗々として日本的であるが、シンセサイザーで同じ日本音階をひくと、どこか民族性が抜けて、属性のない、誰でも楽しめる音楽になる効果がある。それが、「電子音楽の汎用性」であり、民族に関係なく聞ける音楽となる。

アメリカのデトロイト・テクノは、YMOの影響にあり、それがイギリスへと飛びながら、電子音楽の世界的ムーブメントになっていく。

坂本氏は、シンセサイザーという楽器を誰よりもいち早く使いこなし、既存の楽器から脱却した新しいサウンドを終生追求していた。黎明期のシンセサイザーから、最先端のコンピューターのデジタルシンセサイザーまで全て一通り使い倒し、アナログシンセサイザーに回帰していく。

彼、曰く、「デジタルで発生させるより、アナログの方がより自然に近い。シンセサイザーの第一人者、富田勲氏は、電気の音は、雷と同じように自然の音だと言っていた。僕もそう感じます。」14:46から坂本氏。これはシンセサイザー黎明期からのメーカー、MOOGが2019年頃に出したポリフォニックアナログ・シンセサイザーのデモ映像。

余談ではあるが、坂本氏はシンセサイザーの使い始め当初から、MOOGの音は好みではなかったと語っていた。
彼が終生、愛用したのは、Sequential というメーカーの”Prophet-5”というシンセサイザー。
上記の「い・け・な・いルージュマジック」でも弾いているし、最後のオリジナルアルバム”async”でも使用している。彼が音楽人生で使い倒した、そして深く愛したシンセサイザーの一つは、Prophet-5だった。
操作性、そして音作りのしやすさが魅力だと語っていたと思う。50年くらい使っていたと思うが、それでも時代性を超えて、今でもそして未来でも鑑賞に耐えうる音を作ったのが、坂本氏の魅力でもある。


彼が成し遂げたことの2つ目に、アコースティックピアノの奏法、楽曲の再構成である。
時々感じていたが、彼がアコースティックピアノを弾いても、まるでシンセサイザーのように聴こえてしまうときがあった。2000年代から彼は「音の響き」に興味を持っていたが、一般的なクラシックの奏者のようなピアノとはタッチが全く違う。電子音楽を聴いているような錯覚も覚えた。

彼はクラシックのみでなく、ジャズ、ポップスなど様々な音楽を弾き、シンセサイザーも扱っていたので、一般的なピアニストが持っているピアノのタッチではない、唯一無二のタッチがあった。ピアノのハンマーがピアノ線に当たるとき、クラシック、ジャズの人はアタックを強めに出すが、坂本氏のタッチはアタックが柔らかい。
最後のライブ映像のインタビューで、自分は優れたピアニストではないと謙遜していたが、相当なレベルのピアニストだったことは誰もが知っている。彼は生涯、ピアノの奏法を追求していた。

この曲はピアノのアタックはやや鋭いが、2台のピアノをダビングすることで、黒人音楽のようなグルーヴ感を完璧に表現している。さながら、電子音楽の作品のようにも聞こえるし、リズムのレイヤー感もまた、テクノのようだ。
アコースティックピアノは、クラシック、ジャズで使用される楽器であったが、坂本氏はそれらのジャンルからアコースティックピアノの新たな可能性を、奏法によって引き出した稀有なピアニストだったと思う。

ピアノの奏法、そして楽曲のアレンジで、アコースティックピアノの可能性を引き上げたのが坂本氏だった。


坂本氏が成し遂げたことの3つめに、彼が生きた20〜21世紀の音楽をとにかくジャンルレスに聴き、それを吸収しつづけ、自分の音楽に反映させた結果、すべてのジャンルの音楽を彼なりに統合した唯一無二の音楽を作り続けた点である。

幼少期のバッハに始まり、クラシック、現代音楽、ビートルズなどのPOPS、ロック、黒人音楽、日本、世界の民族音楽、電子音楽など、20世紀音楽のほとんどに耳を傾けていた姿勢は凄まじいものがあった。彼にジャンルという壁は存在していなかった。
その姿勢に影響を受けた私は、自分の勉強不足を痛感し、とにかく色々な音楽に興味を持ちながら聴いた。坂本氏の興味ある分野に目を向けたり、坂本氏の教授であった民族音楽学者、小泉文夫氏のことも知り、小泉氏のアーカイブもよく聴いた。そちらに導いてくれたのは坂本氏だった。

また、彼は音楽のみでなく、自然音や都会の喧騒など、身のまわりで鳴る音にも耳を傾けていた。それを作品に込めることもあったりした。”out of noise”という坂本氏のアルバムで、そういった試みが聴ける。彼が敬愛するジョン・ケージなど現代音楽家やアンビエントミュージックの影響があった。

彼のオリジナルの遺作となった、2023年1月発表の楽曲のスケッチ、「12」より。

これは、彼の愛したアンビエント・ミュージック、つまり音楽以外の自然音もパッケージングされている音楽である。つらい闘病生活の中、呼吸の生々しい息遣いも録音されている。「12」は、「生きていること」そのものを音として記録する意図があったのだと思う。
壮絶な病の苦痛の中で、癒しを音楽に求めていたのだろうと思う。
彼の内面をスケッチするその楽曲から、心の底より発せられる、生命への喜びのような優しさを感じとれ、涙を禁じえない。
楽曲の分析など野暮なのであえてしないが、彼の生きた71年という時間の音を感じ取れる、そんな傑作である。

彼が成し遂げたことの4つ目に、絵画的音楽手法により、映画音楽を多数製作した点である。
彼は映画が好きでとにかく沢山映画を観ていた。凛々しいルックスが大島渚監督の目にとまり、役者としてオファーが来たが、主題歌も作らせて欲しいと大島監督に頼み、できたのが「Merry Christmas, Mr. Lawrence」。これを機に、彼には世界の映画監督から制作の依頼が殺到し始め、映画音楽の領域に踏み出していく。そして、「ラストエンペラー」へと繋がっていく。

彼はフランス近代音楽、ラベル、ドビュッシー、サティーなども好きだったので、フランスの印象派音楽的なもの、また現代音楽や電子音楽など様々な音楽を混ぜながら、監督の欲する映画音楽を製作し続けた。その数は膨大である。
その中から、「星になった少年」より。やさしいメロディーが心地よく、私はとても好きだ。


人としての坂本氏を見てみよう。彼は常に世の中の不正やおかしいことに対してプロテストし、行動するという真摯な姿勢があった。
彼の若い頃を振り返った記事がこちら。

ある種、壮絶な若い頃の経験だが、非常に興味深い。
彼は音楽だけをやることに違和感を持ち、常に現代に生きる一人の人間として社会の理想の在り方を考え、それを実行しようとしていた活動家、思想家でもあった。

原発問題、非戦、民主主義、憲法9条、東日本大震災における岩手県住田町の木造仮設住宅の建設支援、東北ユースオーケストラ設立など、彼の根底にあるのは徹底したヒューマニズムであり、それをただの思想で終わらせるのでなく、実行に移そうとした行動的思想家であった。

若い頃に参加していた学生運動、三島由紀夫の自決などヒリヒリした1960年代の時代性が、彼を育てていったのかもしれない。
このような人間は、稀有な存在であり、本当に凄まじい人であった。


ポップス、映画音楽、コマーシャル音楽など、多岐にわたる作品を作り続けた坂本氏が2014年ガンに罹患し、2017年に復帰した時に出した最後のオリジナルアルバム、”async”は、彼の人生の集大成の作品だったと言える。
「あまりに好きすぎて、誰にも聴かせたくない」と坂本氏自身が言っていたが、おそらくここまで音楽をやって初めて到達できた地平だったのかも知れない。

この曲は、ソ連の映画監督の巨匠、アンドレイ・タルコフスキーの映画「惑星ソラリス」を見ながら、坂本氏自身だったらこういう曲を挿入する、というコンセプトで生まれた。

私も映画は若い頃、貪るように名作と言われる作品を300本近く観た。「惑星ソラリス」の映像美、そして音楽として唯一挿入されるバッハのコラールに美しさを感じた一人である。

"solari"はバッハのような旋律でありながら、坂本氏が吸収してきた様々な音楽が、アナログシンセサイザーの耽美な響き、歪みをもって、幽幻な世界を醸し出している。

「これを聞いた人に楽しんでもらえるかどうかは、正直わかりません。どう聞くか、聞いて何を思うかもその人次第だと思っています。とにかく自分がいまやりたいことだけをやった。いままででいちばんわがままなアルバムかもしれません。」

彼は、芸術の到達点にたどり着いた。

多分、ここまでの極みに行ける人は、今世紀ほとんどいないであろう。

音楽の求道、そして社会・世界との関係性を追求し、より民主的でピースフルな世界を体現しようとした人、それが坂本龍一という人であったように思える。

そして、何よりも、世界的音楽家になったとしても、思い上がることなく、市井の人、市民として人々と接していたことも印象深い。謙虚だったからこそ、彼は芸術の極みまで上り詰めることができたのだろう。
その深くやさしい、人間性を私は愛してやまない。

とにかく、坂本氏からたくさんの恩恵をいただいた。

私の愛した教授、安らかに。



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