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ケルアックの『路上』に人生を重ねて~あとがき『胸躍るままにブルースを』~

 約1か月間をかけて、自身の処女作 『胸躍るままにブルースを』(以下、胸ブル)を投稿し終えた。少ないながらも読んで「いいね」を下さった皆様、ありがとうございました。

本作のベースを書き上げたのは2015年頃、その後チョコチョコと修正したり書き加えたりをし続けた。

 胸ブルはフィクションでもありながら、90パーセントは実話と言っても過言ではない。主人公の仁は正に自分のことだし、作中に登場する仁が所属するバンドや、その他のメンバーも、彼女の麻里もモデルが存在する。過去にわたしと音楽を通じて関わりがあった方々がこの物語を読めば、どのキャラクターが誰を指すのか安易に判ることだろう。

ちなみに、作中で警官が銃を奪われ、その奪った銃で仁が自らの命を絶つクライマックス以外はほとんど実際にあった話がベースになっている。特に過度な脚色は施していない。何気なく過ごすわたし達の日常はそれほどドラマチックなのだと書いていて実感した。

 20代、音楽がわたしの全てだったし、今も愛して止まない。

しかし胸ブルのストーリー通り、作中のバンド 『コーポラビッツ』のモデルとなるバンドの解散後、わたしはすぐ家族を授かりそこで音楽は止まってしまった。そしてこれもストーリー通り、猿楽のモデルとなる男性との関係も失ってしまった。

クライマックスで仁がブルースを唄い上げ、そして銃で自らの頭を打ちぬく描写は、それまでの音楽活動に伴う青春を終え、違う人間として生きてゆくわたし人生の比喩表現だ。

誰にも評価されなくても情熱を持って夢を追いかけた、若かれし己を芸術的に表現し、肯定し、それまでの人生に納得したかった。それが故の執筆だったと思う。

着想のマテリアルは、太宰治の『人間失格』と、ジャック・ケルアックの『路上』。若い頃から愛読している2冊に漂う退廃的であるが本能的で美しい描写に自分の人生を重ねたかった。

ちなみに作中でキャラクターに使用されるキャラクター名は正に前述の『路上』からいただいている。仁はディーン、麻里はメリールゥ、美優はカミーユ、猿楽はサル・パラダイスから。

ジャックケルアックの『路上』の最後、ディーンとサルが再会した時に「ディーンは以前のように喋れなくなってなっていた」という記述について、猿楽のモデルとなった男性と論議を交わしたことがある。あの表現は何を指すのか?という猿楽に対して私は、

「結婚し家族を持ち社会人となり所謂"まとも”になってしまったディーンには、以前の様な破天荒な言動に溢れ出ていた「魅力」が無くなってしまったのではないか?」

と回答し、彼に「そうゆうことか!そうとしか思えないな!」と称賛をいただいた。

その回答を導き出せた理由は、その時わたしにももう家族があり、わたしの内にも「以前の様にはいられない」というある種の絶望の実感があったからだ。ロック聖典の主人公ディーン・モリアーティの名をおこがましくも自身をモデルとした主人公の名に拝借したのもそこに在る。

 音楽の世界の中心に身を置いていた頃からもう10年上経過し、当時の友人・知人はもう誰一人として関わらなくなってしまった。だけども、あの頃の興奮やときめきが今も己に潜在し、よい音楽に触れる度にわたしの心は踊り高揚する。そして、「音楽を作り続ける・歌い続ける」ということがわたしの生きる希望となっている。

それは、音楽の魅力に没頭し、表現できたあの青春があったからだ。あの頃、わたしに関わってくれた全ての方々に感謝を記したい。

そして最後に、好き勝手な言動で迷惑をかけ、仕事も続けられずみっともない姿しか見せていないにも関わらず、わたしを父として接してくれている家族にもここに感謝を記す。わたしを理解しようといつも一生懸命な妻には、いつか、毛皮のマリーズの『Mary Lou』の様なラヴソングを贈りたい。

2024年4月23日 



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