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所持金ゼロ円、その日暮らしで旅していた日々の話
書きたい。
唐突に、そんな思いがお腹の奥から湧き上がってきた。
深夜を過ぎて、もはや午前1時前だ。外からは雨が屋根にバラバラと当たる音がする。夜の、雨の音って、どうしてこんなに響くんだろう。どうしてこんなに心地よいんだろう。そんなことを、考える。
隣で娘が、子猫のような声で「んんん」と声をあげ、寝返りをうった。彼女の腕が、わたしの左半身にのしかかる。ついでに足も左下半身に絡められた。
かわいいな、と思う。
まだ、幼さの残る、ふわふわとした、体温の高い、娘の手足。それを撫でるのが好きだ。いつの間にか年月が経ち、娘はそろそろ6歳になる。娘がお腹に宿ったと知った日から、7年の月日が経とうとしているのだ。それは、移り気なわたしにとって、気が遠くなるように長い年月。なのに、彼女と一緒だと、瞬きのように過ぎたように感じるから、不思議だ。
こんな時間にわたしが起きているのは珍しい。というか、ほぼあり得ない。なのになんで、こんな深夜に目が覚めたのかと言うと。
雨の音に起こされただけじゃない。
日付的には昨夜。瓶ビールの中瓶を1人で一本空けつつ、パスタ、牛タンロース、洋風弁当、そしてデザートに焼酎アイスと大盛りのケーキを食べた。その名残が、胃の下の方でほんのり暴れはじめて、目が覚めたのだ。
バイト先のお店での、送別会だった。ある日ふらりとお店に来て、突然「ここで働かせてください」と告げた20代の男の子。スイス人の彼は、その後なんだかんだで1ヶ月ほど、無給で見習いとしてうちの店で働いた。英語が流暢に話せるのは、わたしだけだったので、必然的に通訳の立場になった。
20代後半で、バックパックを背負い、細かな予定のないまま、旅をする。それは、わたしにとっては、懐かしい香りがする、自然なことだったけれど。職場の人にとっては、かなり不思議かつ不安なことだったようで。彼の身元や、信頼できそうな人なのか、本当に無給でいいのか、生活はどうしているのかなどを、何度もやんわり尋ねられた。
そうか。
旅人として生きることは、普通は、あんまり理解されないんだな。なんてことを、そのとき、ふんわりと感じたのだ。当時のわたしの生活を知ったら、この人たちはなんで言うんだろう?わたしの人となりを知ってくれているし、そもそも言葉がちゃんと通じるから、その生き様を理解はできなくても、なんだかんだ受け入れてくれるのだろうか。
22歳からの数年間。わたしは文字通りバックパックに入るだけの荷物を自分の全財産として、その日暮らしをしていた。
沖縄の那覇市最安(と噂の)ゲストハウスで住み込みで働いた。働いたといっても、あんまり何もしてなかった。夜になると1階がバーに返信するお店で、カウンターに立ち、ほぼ原価のお酒を作って提供していたくらいだろうか。そのバーでの収入の半分が他のスタッフと割り勘された。それが翌日の昼ごはん代だった。那覇市は、とりあえず賃金が安い。500円もあれば、立派な定食が食べられる。
住み込みで働いているので、家賃や水道光熱費はゼロ。スマホ代と昼ごはん代さえ捻出できれば、生きていけた。その界隈は、みんな似たり寄ったりの生活だった。センベロというのが当時のわたしの界隈では流行っていて。文字通り、千円ぽっきりでお酒と3品、つまみが食べられる。安く、気持ちよく酔うことができるのも、那覇の魅力だった。
ある日のこと。バックパックを背負い、日に焼けた、髪の長い、いかにも旅人という青年が入ってきた。彼は、数日だけ泊めて欲しいと言った。そこから数日して、よっぽど居心地が良かったのか、彼は屋上にテントを張って、そこで寝泊まりをするようになった。屋上でのテント生活なので、ただでさえ安い宿泊料は、さらに値引きされた。さすがに大雨の日なんかは、1階のバーカウンターのところの長椅子に寝転がって、そこで寝ていた。夏場は常にふんどし一丁だった。
昔、内地(本州)で林業の仕事をしていたときに、マジックマッシュルームを食べてしまった。それで、ハイになって、気づいたら早朝、山の中の線路を歩いていて、始発の電車を止めてしまったことがあるとか。東南アジアを旅していたときに、現地のマフィアに着ぐるみ剥がされて、無一文になってしまったとか。
「いやぁ。流石にあのときは、死んだと思ったよねえ。でも、人って結局、なんだかんだ、生きていけるんだよねえ」。ボブマーリーにすこし雰囲気が似ていて、いつも優しく、ゆっくりと話す。彼は、生粋の旅人だった。どうやって宿泊料を払っていたんだろう。そういえば、聞いたことがないな。
うちのゲストハウスには、もう1人住人がいた。うちなんちゅ(沖縄の人)なのだけれど、なんだかんだの理由で実家や地元にはいたくなくて、流れ着いてこのゲストハウスに住み着いた人だった。スタッフを含めたメンバーのなかで、いちばんの年長だった。2段に積み上げられた、横4つ、計8つの木箱の、一番奥の下が、彼の住処だった。
毛むくじゃらで、クマみたいな人だった。でも、とても優しくて、頼り甲斐があって、面倒見のいい、お兄ちゃんだった。一度、わたしともう1人のスタッフが、仕事に疲れてお休みをもらったことがある。その夜、彼は白シャツに黒いツイードのチョッキ、そして赤色に黒のドット柄の蝶ネクタイをつけて、カウンターに立ってくれた。いつものバーが、彼のおかげで一気にシックで高級感のある空間になった。常連のお客さんたちは、みんな、やいややいやと喜んだ。
そのゲストハウスには、半年ほど住んでいたんだろうか。でも、アーケード内で完結してしまう日々に、なんとなく息苦しくなって。そこから思いつきで石垣島に飛んだ。行き当たりばったり。なんくるなるっしょ、の精神で。
石垣島でも、最初はゲストハウスでヘルパーをして宿代をうかした。ヘルパーというのは、お金のない旅人が必ず使う手法で。要は、ゲストハウスの掃除などの雑用をしますので、宿代を免除してください、という制度だ。どこの宿でもやってるわけじゃないけれど、バックパッカーを受け付けているようなゲストハウスなら、聞いてみたら案外OKがもらえる。
これで宿代をうかし、現地の飲食店でバイトをして、食費をうかす。これで、お金をほぼ使うことなく、生きていくことができる。ここら辺は、ガチの旅人たちに囲まれて身につけた、生き抜くための知恵だ。ちなみに、ガチの旅人たちは、マジでお金がなくなってきたら、路上でギターの弾き語りをしたりして、チップを稼ぎ、その日や翌日の生活費にする。ゼロ円でアメリカ横断とか、ママチャリで日本一周とかをやっていた界隈の人たちは、さすがに生き抜くスキルの引き出しが違う。
石垣島では、そんなわけで、ゲストハウスでヘルパーをして、夕方からは地元の海人居酒屋でバイトをした。働きはじめてすぐのとき、「ねぇねぇ(姉ちゃんの意)、泡盛をピッチャーで」と言われて、目がハテナになったものだった。「ピッチャーって、野球の、ですか?」と、トンチンカンなことを言いつつ、ボールを投げる真似をしたら、「フラー!」と怒られた。バカとか阿呆という意味だ。
ちなみに、泡盛をピッチャーで、というのは野球とはなんの関係もない。石垣では、泡盛を水の如く飲む。いちいち都度都度、コップに泡盛と水と氷を入れて、なんてまどろっこしいこと、してられない。というわけで、どうするかというと。泡盛の瓶、水の入った2リットルペットボトル、氷の入ったバケツ、そして空のピッチャーをお届けする。代表者が、ピッチャーに氷をガシャガシャと入れ、ドボドボドボドボと泡盛を注ぐ。そして、水をドバドバと注ぎ、ピッチャーでみんなにお酒を注いでいくのだ。これで、あっという間にゆんたく(おしゃべり)に集中しながら、いい感じに酔い潰れるまで、泡盛を注ぎ続けることができるようになる。店員は、あとは言われるたびに、泡盛の瓶と、水の入ったボトルをお持ちすればいい。ただし、この手法では、代表者が決めた濃さで泡盛を飲まねばならぬ。水、ほとんど入ってないよ、ピッチャーに。みたいなことも、ままあるのだけれど、まあ、そこら辺はご愛嬌だ。
沖縄と石垣に住んで、わたしもいつの間にか泡盛好きになった。ちなみに一番のお気に入りは、菊の露。これに梅干しを入れて、水割りにして飲むのが、うまいんだあ。本州では、なかなか見つけられないのが、ちょっぴり寂しい。
そんなこんなで、気の向くままに書いていたら、1:30を過ぎていた。そろそろ寝なくちゃ、明日も仕事だ。まだ、胃のあたりはすこしムカムカしている。吐いた方が楽なのだろうか。吐くほどではないのだけれど。うーん。悩ましい。
でも、いい夜だった。余興も楽しく、料理もおいしかった。そして、こうして、書きたいものを、書くことができた。
うむ。良き夜だ。ありがたい。
また、気の向くまま、書いていこう。
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