残っていたのは、膀胱炎の手術をした外科医院と肉屋。くるみ商店街の面影
神奈川に住んでいるけれど、歯医者はいまだに出身地に近い都内の板橋にある歯科医院へ通っている。
年に数回の定期検診を終え、なんとなく、小5まで住んでいたくるみ商店街へ行ってみた。なぜその気になったかというと、長野市で写真の展示をした際、街を歩いていて、自分が子供の頃の商店街の趣をそのまま残す権堂通りを見たからだろう。
盗まれた自転車を発見したり、捨て猫を拾った図書館にバイクを止めて、商店街を歩いてみる。
毎年正月に凧を上げていた原っぱは駐車場になり、写真店をしていたI君の店は解体されたばかりらしく、ビニールの壁に覆われていた。
そして、寺の中にあった幼稚園も駐車場になっていた。
早生まれでひとりっこだったぼくは、幼稚園へ行くのがイヤでイヤで、毎朝、門のところで先生に親から剥がされるようにして教室に連れ去られた。
おしっこがしたくなっても「トイレに行きたい」と言えずにがまんして、そのままお漏らししたり、そのせいで膀胱炎になって手術した。
境内に入ってみると大きなイチョウの木がある。説明板を見ると、徳川家光が植えたと伝わっているという。知らなかった。。。
そして、イチョウの大木の傍に、卒園者の父兄が作った記念碑があり、それが唯一、くるみ幼稚園があったことを証明するものだった。
奥の方へ歩いていくと、一段高くなったところにも駐車場があった。そこは、かつて、離れの運動場だったところ。
運動会や盆踊りをしたところだ。
ゲートは閉まっていたが、鍵がかかっていなかったので、勝手に開けて入ってみる。
土だった運動場はコンクリートになって、車止めのブロックが整然と置かれている。
でも、傍には、見学に来た父兄たちが子どもたちを眺めていた水色のベンチが設置されたままだった。
ぼくは、駆けっこの時に、ゴールした後、順位によってどこへ行ったらいいかが分からず、わざとビリになるように走った。盆踊りの時には和装が得意だったばあちゃんにせがみ、一晩でマジンガーZの浴衣を作ってもらった。
幼稚園の門前は、昔、イチョウ並木だったが、今は並木はなく、ごちゃごちゃといろいろなものが置かれていた。 ただ、延々と続く長大な並木道だと思っていたのに、今見ると20mあるかどうかくらいの小さな門前だと分かった。
秋になると、臭いイチョウの実がたくさん落ちていて、よく滑って転んだことがあった。
そして、銭湯もなくなり、パン屋も海苔屋もマーケットも金物屋も寿司屋も団子屋も豆腐屋も酒屋も焼き鳥屋も歯医者も材木屋も、ぼくが育った木造アパートもなくなって、みな、新建材でできた住宅になっていた。
商店街で買い物をするともらえる券で回せるガラガラがいつも置かれていた駐車場はあったが、そこも土がコンクリになって、フェンスだけが辛うじて当時のままだった。
静まり返った道を何度か往復して、「日替わり定食あります」の文字を掲げた甘味処に入ってみる。
中には白髪の女性がひとりで店番をしていた。
日替わり定食を頼み、この辺で生まれた話をすると、彼女はぼくが生まれた時、既に19歳だったことがわかった。そして、両親が商店街で商売していたという。
「隣は寿司屋でしたよね」
と僕がいうと、
「そうですよ。じゃあ、ここが何だったか分かる?」
と彼女が言った。
「ううん・・・」
ぼくがこの商店街に住んでいたのは小5まで。小学生の記憶に刻まれる店といえば、おもちゃやか食べ物屋くらいだろう。
「飲食ではなかったのでは?」
と探りを入れると、彼女は目を細めて
「豆腐屋よ」
と言った。
「ああ!」
豆腐屋は覚えている。
しかし、ぼくの記憶では、豆腐屋はもっと街道に近いところにあった焼き鳥屋の隣だった。そう思っていると
「父と母が50年くらい前に新潟から出てきて、店を出したんです。当時は、焼き鳥屋の隣で、後になってこっちへ移ったの」
きっと、お店が今の場所に来たのは僕が他所へ越してからのことなのだろう。でも、そのことには触れずに人もほとんど通らない通りを眺めた。
この店の向かいにはマーケットがあった。
いつも人でごった返してまっすぐ進めなかったのを覚えている。
そんな中、クルマが通り、団子屋の友人がひかれるのを見たのもここだった。
出てきた定食の厚揚げがうまかった。
「大手のスーパーが出来たわけでもないのに、どうして店がなくなってしまったんですかね」
と聞いてみる。
「誰も継ごうとしなかったんでしょう」
とポツリ。
それでも銭湯は5年くらい前まではやっていたそうだ。よく、薪を運ぶオート三輪に乗って遊んだっけ。
店を出て、団地の中にあった坂の上の公園へ。
藤棚の砂場、ブランコ、シーソー、滑り台、鉄棒があり、ケイドロや高鬼、野球をして遊んだ。
団地のベランダの下に潜ってアリ地獄を取った。
けれど、団地の建物は新しくなっていて、公園は広場にはなっていたがコンクリートになっていた。
秘密基地を作った団地裏の遊歩道も駐車場になり、親父がたまにパチンコをしに行ったボーリング場や屋上に寝そべり、空ばかり見ていた家具センターが入ったマンションが遠くに見えた。
甘味処の白髪の女性が言っていた。
「50年やそこらで、町がこんなに変わるとはねー」
寂しいとは思わない。
ただ、町がうつろっても、自分はそのころ抱いていた価値観を礎にして今ここにあることが面白いなと思った。
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