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孤独と向き合う

私の心にはいつも「孤独」という感覚がある。

実際には孤独ではないのに

「孤独」だと思うのはなぜ?

こないだこれに関して

小さなブレイクスルーがあった。


それは

「孤独」だという感覚があれば、

いざ孤独になったとき

"ほらね、だから言ったでしょ"

と、自分に言えて傷つかないから、

この感覚をなくしたいどころか

大切に持っていたい自分がいるという気付き。


そう。

私はこの感覚を後生大事に握りしめている。

いったい何を守りたいのか?


『"ほらね、だから言ったでしょ"

と、自分に言えて傷つかないから』というのは

この感覚を持っていたい理由であり、

守りたいものの真髄を示している訳ではない。


何かを見たくない。


それを見たくない私を隠そうとしている。

その見たくない「それ」とはなんなのか?


私の中で見たくないと思っているのは

大切な人のイライラ。

腹の底からの怒りはいい。

だけど、ちょっとしたことに

イライラする感覚が嫌い。

これを見た時私は心底ガッカリする。


イライラは

人間誰しも感じるものだとわかっている。

だけど、愛する人の中にイライラした感じを見つけると

くだらないものを自分が大切にしてきたような感覚になり

最低の気分になってしまう。


大切にしていたのは

ハリボテ。

幻。

中身のないもの。


そんな絶望感でいっぱいになる。


愛するものの一部を拒絶し

自分が愛せると思う部分だけを

肥大化させ

「○○だから愛している」と

思い込んでいる自分。


私が愛して大切にしていると思い込んでいるものは

ハリボテ。

幻。

中身のないもの。

それが真実。


愛するものの一部を拒絶。

その拒絶は

私の中にある

私自身がそれを好きだと認めるものが怖い何かを

拒絶しているから起こっている。


いったい何を?


深く自分の中に潜る。



深く潜った先にこんな思いがあった。



そう。

私は暴力が好きだ。


最低だと思いながら

その暴力を愛している。


私の母が父に身体中アザだらけにされながら

別れなかったように。


父がおばあちゃんからお灸を火傷するように押し付けられても

おばあちゃんを愛していたように。


今までの私は

そういう愛があるということを

受け入れられずにいた。


人を傷つけて、それが愛なんて。

人に傷つけられて、それが愛なんて。

身体を痛めて得られる愛。

そんなもの絶対に認めたくない。


そう言って

心の奥底で正義の剣を振り回していた。


今までの私は

心で受け入れたら

それは現実に行うものとイコールだった。


だから暴力を受け入れたら

私が暴力を振るう人になるのではないかと怯えていた。


でも違う。


心で受け入れても

その行動をしないという

選択の自由がある。


その選択の自由があることを私は知っている。


今の私は

自分の幸せになる行動を

ちゃんと選択できるくらいには成長したはずだ。


ならばもう

全てを飲み込んでみよう。

全てを飲み込んだ先に


今と同じ孤独の感覚があるのか

次の世界に行ってみよう。




そしたら私の孤独は消えるだろうか?


宇宙エネルギーに興味があるあなたへ愛を込めて