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ぼくらのSNSとは何モノか

今、私の独学のテーマの一つに「哲学」があります。
ゆくゆくは哲学の観点から書いてみたいなぁと思うのですが、今の状態で頭を絞ってできる限り考えをまとめたいと思います。
(ご意見、ご指摘等あれば是非お願いします。)

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考えよう、と決めた理由は大きく2つ


・体調を壊して活動できる時間が減ったことで、自身がスマホを触る時間が増えた=SNSを利用している時間が増えたことで、『SNS観』のようなものがじわじわと自分の中で形になってきたため

・木村花さんについての報道及びSNS上での“声”に触れ、考える時間が増えたため


私のSNS観

SNS= social networking service 

=社会的ネットワーク構築のためのサービス

言葉の意味としては上記のとおりで、たとえばfacebookについていえば、映画の『social network』を観ると、フィクションとはいえ成り立ちや動機がある程度掴めるかと思います。
要するに 関係性、人と人のつながり、絆のようなもの を実感するためのツールと定義してそれほどハズレではないと思います。

ここでSNSの種類、近年の年代別利用状況(利用率、使用時間・頻度など)は調べればわかるので省略。

こちらご参考まで)
総務省|平成30年版 情報通信白書|ソーシャルメディアの利用状況
https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/h30/html/nd142210.html

個人的には、特にここ数か月(外出自粛、リモートワークが推奨された期間)は、みんな利用時間が増えているんじゃなかろうか、と思っていますが。

さて、今では年齢性別関係なくSNSは使われています。
友人関係の構築だけでなく、勉強、仕事(企業、個人問わず)、情報発信など、目的別に用途も広がっているようです。


そこで生まれる交友、絆、お金、チャンス、情報・・・すべてがより近く、手軽で、簡単にリーチできるようになりました。
Twitterを見ていると、それを特に強く実感します。皆さんとても積極的に見えます。

個人も企業も、ブランディングの入り口として、プロフィールの文章、画像を工夫したり、名前を面白いもの、“ウリ”が分かりやすく伝わる名前を工夫したりしているようです。
当然使用しているSNSの特色に合わせて内容を変えて。
たとえばTwitterであれば面白さ・早さ・明確さ・トレンド・煽りを、Instagramであればストーリー性、アート、生活感、配色、メッセージ性 等でしょうか。利用者の心理状況や距離感にあった形に、情報を成形しています。
タイムライン上に並ぶ素敵なアイコン画像、ユニークな名前。
動物図鑑や美術の教本のように思えます。そして皆もれなくキャッチーな話題、正しい意見、為になる話や方法を発信しています。

そこに登場する魅力的なアカウントの一つ一つに、誰もが手軽に意思表示ができ、評価ができ、コメントを交換できる。(発信されているのが誠実なメッセージか、戦略的な撒き餌かに関わらず)
これがSNSのSNSたるゆえんですね。まさに社会と人をnetworking(つなぐこと)するという意味では大変素晴らしく、成功しています。
私もtwitterのほかにfacebookやinstagramのアカウントも持っていますし、それぞれを楽しんでいます。しかも無料で。


手軽に錯覚できるSNS

実際に使うようになり、また今回のニュースがあって、忘れてはいけないポイントがあるのでは?と思うようになりました。

1つ目は “つながること”や“リーチできること“と、“手に入れること”は全く違う、ということ。

たとえば、繋がりたい相手もそのチャンスも、そのために必要な情報も、今目の前にある。スマホの画面で間違いなく確認できる。
ダイレクトメールも送れるし、チャットもできる、打ち合わせもできる。いいねだって押せる。
そう、確かにそこにあるのに、まるでホログラフのようにどこか実体がない、というもどかしさ

とても厄介なのは、そのホログラフというか、イメージ(表象)の向こうには間違いなく人間・企業・社会という実態があるのに、捉えることができるのはイメージ(表象)のほうだけ、ということ。

それにより、イメージ(表象)を現実だ、と認識してしまうという問題です。

人は多くの場合、すでにやり取りがあり顔もわかるような友人や、仕事上のクライアント(未来のクライアント候補も含む)などではない、『お金や責任を特に意識する必要の薄い相手』に対しては、“倫理的に正しい行動をしない自由”を行使するハードルが、いとも簡単に下げられるのではないか、と思えます。
今回の木村花さん以前にも、芸能人、著名人、主にネット世界での有名人に対してさえ、誹謗中傷や業務妨害から裁判になるケースもありました。

自分自身がそのイメージ(表象)そのものの友人や家族になったわけでも、知人として認められたわけでもないのに、とても簡単に、さも当たり前のように意思(言葉やいいねマークを押す行為)を伝えることだけができる、ということの危うさがここにあります。しかも匿名性を担保しつつ。

実生活で名前も顔もわからない人を「友達です」とは誰もいわないのに、SNSではそれが可能という奇妙さです。

手軽になったことで、道徳や倫理のハードルの高さの操作も容易になってしまった、と感じます。
そしてSNS上に匿名でアカウントがあるということ自体が、逃げることを容易にし、その容易さそのものが道徳観、倫理観をいともたやすく形骸化させます。(例:やばくなったらアカウントを消せばいい、という行動)


自分が言われたくないような言葉を当然のように相手に届ける、というのは空間を超えて飛んでいくナイフを相手に投げつけるのと同義なのですが、”倫理を損なった行動を自由意思で選択した”当人は、発信そのものが目的になるので考えが及びません。

というより、考えることができる範囲外の行動になってしまうのだと思います。
(願わくば、ナイフではなく勇気や希望、動機付けばかりが溢れるものになってほしいです)


SNSは、 ” 世界 ” ではない

忘れてはいけないもう一点は、SNSの持つ “ つながりの強さ ” について。
個人の生活にも経済活動にも深く深く入り込み、また利用するすべての人が強く望んだことで、アカウントを持つ=繋がりが形作られたように思ってしまいます。
特にフォロワーの数が多かったり、投稿への いいね の数が多かったりすると、より強く感じてしまうかもしれません。

しかし、注意しなければいけないのは、その“つながりの強さ”はスマホやPCなどの端末に依存しないと実感ができない強さでしかないのであり、電源を落としたり端末を紛失してしまった瞬間に、自身も周囲(フォロワー)も存在自体が消えて認知することそのものができなくなるほど脆いものだ、ということ。

その程度の強さでしかない、ということです。このうえなく脆弱。ボタン一つです。

これはSNSが「システム」である以上避けられない。
いくら世界的に有名で時価総額の高い企業が提供していようが、利用者が多かろうが、それは“たかがシステム“であり、数ある道具の一つに過ぎないモノです。

それが本質であるということを忘れてはいけないはずです。つまり、

SNSは、私たちの世界そのものにはなり得ない。

だから迷い、苦しむ時間が増えるようなら電源を切りましょう。迷う必要はありません。
また、そこに楽しさがあったとしても、イメージ(表象)ではなくその向こう側にいる実態とのつながりが得られるまでは、仮想空間の出来事でしかないことを心のどこかに止めておきましょう。

匿名性が作り出す、”自由”の罪と希望

社会をつなぐこと(networking)がSNSの意義だったのは、まだ純粋さが残っていた黎明期、キャパシティーとサービス内容がそれこそ爆発するように拡充し始めた成長期の話で、
手軽さと自由がに満たされた現在は、

SNSの N は ” Networking(つながる) ”  ではなく

”  Nibble(噛み千切る) ” になりはじめているように感じます。

情報、お金、チャンス、インスピレーション、交友、優越感・・・。それらの中で自分が欲しい部分を欲しいだけ噛り付き、食いちぎり、いらないものは無関心でいられる。そういう自由を選択できるというような。

人は自分が欲しいモノだけを見る、です。SNSでいえば
利用したいものだけを探し、食い散らかすことも“簡単に”できるシステムです。


特にここ数日では、ネットリテラシー(何年議論してるんだという感じですが)や新たな法整備についての話が持ち上がっていますが、

・SNSと人間との関わり方は常に変わり続けてきたし、これから変わること

・SNSがただのシステムである以上、仕組みではなく倫理の問題であること

・SNSは全ての人が後生大事にするほど、万能でもなければ有益でもない

・SNSは用途と利便性が高まっただけで、人間にとって価値が上がったわけではないということ。また、SNSを使う人間の価値が高いわけでもないこと

これらを改めて理解することが大切かと感じています。
(少なくとも私の子供が大きくなったら、この点は伝えてあげなければと思います)

特にSNSにおいての『匿名性』は発言や表現の自由を引き上げました。それに伴い利便性も高まりました。しかし、問題はその自由にこそある、と感じます。

自由が目の前にあるからといって、自由を行使する必要はなく、
” 自らの自由の範囲を制限する自由 ”を選択することだってできるはずです。

そして自分の倫理と照らし合わせ、拡大させた自由の先に誰かの想いや、人生、その人が抱く理想、穏やかな生活、人間関係などのかけがえのない財産を毀損する可能性があるのであれば、 “ 迷いなく ” 自らの自由度を制限することを選ぶべきだ、と思います。

自由があまりにも多すぎる、という不完全さです。

それに気が付くことが、今後のネットリテラシーの初歩になるのではと考えています。


思うままに書いてしまいました。
哲学以外にも心理学的な面からも思いつくものはあるのですが、文章にできるほど理解できているわけではないので、そちらはまたおいおい書きたいと思います。

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