自分の理想像と現実の力量

「自分はこうありたい」という理想像はみんなにある。
自分の目標やなりたい像に向かって行動していく原動力にもなる。
そして悲しいかな現実の自分の力量もあり、それが突き付けられた時に落ち込んだり悩んだりして、一層練習してその技術を身に付けようとしたり勉強したり、訓練したりする。
どれもちょうどいいが本当に難しいし、バランスもある。
だから人は面白いのかな、と思ったりするけど
渦中の自分は一進一退、一喜一憂するのである。
こーゆー刺激も無いと人生はつまらないんだよなぁ。


よく、私自身のことも含めて自分について話す相手として二人の若者がいる。
仕事としてではなく、素の自分として話す。
私の方がかなり年上なのでカッコつけて話すこともあるけど、彼らと話していると自分の振り返りにもなってとても感心させられており、面白い発見もある。
二人のうちの片方とこの前話した時に、「失敗したくない、カッコいい自分像が自分の中に出来上がってしまっていて、その通り出来るかどうか不安で考えすぎて結局何も出来ない自分がいる」という話になった。
「あー分かるなぁ」と思った。以前の自分はまさにこれだった。


今年やっと打破できつつある旅行への不安。
これは「一人旅でパニック発作が(夜中に)起こったらどうしよう(最初の大きな発作が夜中のひとり旅だったから)」→「(夜中だし)誰も頼れないのが不安、誰も来てもらえなかったらどうしよう」→「発作が出た恐怖がトラウマになり余計に一人でいる事を回避する原因になるんじゃないか」→「ならやめておこう」を20年以上繰り返してきたのだ。見事な思い込み、自分への呪いとなっていた。
でもパニック発作では死なないのだ。
死にそうになるぐらい息苦しい経験をしなくちゃいけないけど、でも絶対に死なないのだ。この恐怖を一旦横に置いておくと、なぜそこまで恐怖なのかというと「無様な自分を見せられない」「他人に『助けて』と言えるかな」「言っても助けてもらえなかったらどうしよう」という取り越し苦労の不安が根っこにあるのが去年の8月サマソニに行く前に気づいた。
自分を抑制して勇気が出せずにいた元凶は「カッコつけなきゃ」=「失敗できない」だったのだ。
この考えを「いいや発作出ても、死なねーし。助けてって言う訓練だと思ってどうなるか実験してみよう」という思いに変えることが出来た。それでもビビリだし完璧主義な所もあるので「家に帰るまでが遠足です精神」で最後までドッキドキになりそう…という思い(これも見事な取り越し苦労)だったが、行ってみると一度も不安になることなく楽しんで帰って来れた。これが大きな自信となり、さらに今年のLAでいろいろ解禁されたのだ。「やってみろよ」と。「自分で思い込んでいたより案外出来んじゃん、おばちゃん」と思えた。自分を信じる力になったと思う。


そこでさっきの若者の話だが、その時に自分はエラソーにその子に「失敗してない人ってめっちゃつまんないから」「失敗したらしただけその人に厚みが出てくるから」「その時は大変だけど、時間がたったら絶対に笑い話になるから」と語っていた。
語りながら自分に「いやおめーもな」とつっこんでいた。
他者に語りながら自分に突っ込む事だらけだなぁ、と今まで仕事中に何回思ったかわからんぐらい、境遇が同じなのだ。
だからこの縁があるんだなぁ、とつくづく思う。ありがたや。
保育士に転職したての頃の自分がまさにそうだった。失敗したくない思いが強すぎたので、その時の先輩先生が「いっぱい失敗したらいいよ」と言ってくれていたし、「若い頃の自分を見ているみたい」とも言ってくれていた。もー本当にありがとうございますK先生…
失敗談って見事にネタになる。だから「しくじり先生」はヒットしたんじゃないかな。
逆に成功の自慢話はずっと聞いていられないのだ。自慢話から学ぶことってあるかしら?


「こうありたい」という自分像と
現状の自分との差がありすぎると苦しい。


でもおばちゃんになった今
諦めと受容、
固執から離れていろんな価値観を捨ててみると
楽になった自分がいることに気が付いた。

おばちゃん最高だな~


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