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きょうの聡太くんとヘドロ飼い主 2024/10/10

 きのうの夕方、いつも通りソファに座り、膝に毛布をかけて読書を始めたところ、聡太くんが「よっこいしょ」と膝に乗ってきた。
 月曜日に膝の上でこねくり回されてケンカになったことは忘れたのだろうか。なんてかわいいやつだ。どうせ2、3日でケンカしたことなんて忘れるだろう、と思っていた通りである。期待を裏切らないやつだ。
 あんがい聡太くんは「いやなことはわりとすぐにわすれます」みたいな生き物なのかもしれない。忘れたいことに限って忘れられない体質の人間としてはちょっとうらやましい。
 猫は温かい。ただしちょっと重い。そして読書して一冊読み切っても、膝の上からどいてくれることはないので、「聡たん降りて」といったんどかして、別の本を持ってきたらまたどっこいしょと乗っかってくる。重い、愛が重い。
 聡太くんは人間大好きくんで甘えん坊将軍だ。心は永遠に赤ちゃんなのだと思う。人間の膝に乗りたがるときは「ぼくはちっちゃいので……」と思っているに違いない。

 きのうは図書館から借りてきた「雨の日のネコはとことん眠い」という、平成の初めごろに出た本を読んでいた。
 そういう、猫が放し飼いだったころの本を読むと、令和の猫の環境の良さと、宇宙の狭さを思わずにはいられない。
 野良猫としてゴミ溜めで育ち、カップラーメンだの大根の細切りだのが好物で、キャットフードに慣れる前に病気になって死んでしまった猫、みたいな話や、ネズミで栄養を補給していた猫の話を見ると、令和の猫は変なものを食べないで済んでいいな、と思うし、自由に外を歩いて庭で日向ぼっこをしている……みたいな話を読むと、聡太くんにとって家の中が全宇宙であるという悲しいことを思う。
 外に行かなくていい、お腹いっぱいキャットフードを食べていい、というのは、猫にとってきっとすごく幸せなことなのかもしれないが、ちょこまか動くものを捕まえたいという野生の気持ちもきっとあるのだろうな、と思う。もうちょっとあったかい土地だったら家にヤモリが出るのだろうが、北東北ではせいぜい虫なのであった。

 きのう聡太くんは「ぼーるあそびがしたいです」とボールを持ってきた。投げて遊んでやっていたら、テレビ台の下に押し込んでしまい、それをあたかもラグビーの選手がモールやスクラムからボールを出すように引っ張り出し、「ほら、ぼーるだしたからなげてください」という顔をしていたのだが、ボールはすさまじいほこりまみれの姿であった。どうすればあんなにほこりまみれになるのだろう。
 それから聡太くんがさっそく新しいカーペットをいじり始めた。キャットケージから手の届くあたりに、爪を引っ掛けてキャットケージもろともずるずる移動するのだが、爪の引っかかるあたりがもう繊維が飛び出している、という状況だ。お前〜!!!! である。

精悍なお顔である。


 ここから先は完全なる余談だ。
 秋田県北部の人間は、ごく日常的にニャーニャー言っている。方言で、ニュアンスを説明するのが難しいのだが、「あーもう!」とか「あらら……」みたいな複雑で広い意味の言葉として「にゃー」という言葉があるのだ。
 この「にゃー」には「にゃにゃにゃ」とか「にゃーな!」という言い方もあり、「にゃーな!」は完全に「あーもう!」で、呆れているか怒っているか面倒がっている時に出る言葉である。
 秋田県北部の民は猫だったのか。いやそんなばかな。
 かの名作ライトノベル「じょっぱれアオモリの星」の主人公である津軽訛りの強すぎるチート魔術士のセリフで「ややや」というものがあり、「あっこれ『にゃにゃにゃ』だ」と思ったこともある。秋田県北部の訛りは津軽弁に少し似ているし、京都から同心円状に分布した結果なのか少し九州の言葉に似ている言葉もある。
 県央や県南の人には、県北の訛りは少し変に聞こえるらしい。まあ日常的に猫みたいにニャーニャー言っているのは確かにちょっと変だ。
 言葉というのは面白い。

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