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処方箋を出さない診療所 #2

「こんばんは」

「こんばんは」

「また来ちゃいました」

「そのようですね。今日はどうされましたか。その後、どうですか」

「相変わらず泣きそうですがそれにはもう慣れてきました」

「そうですか」

「今日は、こないだのホテルステイが楽しかったなあって話でもしようかと思って」

「楽しかった話ですか」

「はい」

「それはお友達相手にすればいいのでは? お友達、おみえじゃないんですか」

「ただ楽しかった話なんか、友達にしても退屈させるだけじゃないですか。あと友達はいます。ありがたいことに」

「話し方次第だと思いますが。ではわたしはご友人以下ということですね」

「そりゃ、あだ名も知らないような病院の先生ですもん」

「それもそうですね。ではどうぞ、お話しください」


「どこから話そうかなあ」

「どこからでも」

「先生、爪の間を見ないでください」

「さっきシールを剥がそうとした時の紙片がまだ挟まっているなあと。気にせず始めてください」

「じゃあ。その日の始まりは、サンドイッチでした」

「サンドイッチですか」

「宿泊地に向かう電車の中で、サンドイッチを預けたくて、冷蔵ロッカーを検索していました」

「サンドイッチですか」

「はい。え、今二回聞きました?」

「どうしてまた」

「食べきれなかったんです。開ける前に、あ、入らないなって。もともと酔いやすいのに車内で文字を書いていて、少し酔ってしまったのもあって」

「そうですか。なんというか」

「はい」

「あなたは要領が悪いですね」

「前も言われました、それ。三回目はいいですからね。ともかく、未開封のサンドイッチをどうしたものかと思っていたんです」

「一緒に連れて歩けばよかったんじゃないですか」

「暑い日だったんです。心配じゃないですか。保冷剤ってコンビニで売ってたかなあ、とも調べて。でもできれば預けたいよなあって」

「冷蔵ロッカーに一人置き去りにされるサンドイッチ」

「先生。擬人化にはまってますか?」

「最近、タイルの擬人化を読んだんです。あれは傑作でした」

「タイル……?」

「続けてください」

「あ、はい。で、調べていたら、ホテルで預かってくれることがあるって」

「ようやくホテルが出てきましたね」

「そうです。これからですよ、先生。今回、オフィスビルに用事があったんですけど」

「はい」

「予約したの、そのビルの真隣のホテルだったんですよね」

「やる気満々ですね」

「予約した時には気づかなかったんです。駅からの道を調べようとグーグルマップを見てみたら、隣で」

「グーグルマップ派ですか」

「グーグルマップ派です」

「惜しい。わたしは Yahoo 地図派です」

「最初から入ってるマップは使わないんですね」

「惜しかったですね」

「先生のその基準なんなんだろうな……」

「それで、宙ぶらりんになっているサンドイッチはどうなりましたか」

「預かってくれました、ホテルで」

「なんと」

「すごいですよね。ダメ元で聞いてみたら、裏で預かりますよ、って言ってくださって」

「とんでもない傍迷惑な宿泊客ですね」

「反論できません、全く。大きなカチューシャと大振りのイヤリングの似合う、素敵な受付の人でした」


「お部屋はどういった雰囲気だったんですか」

「かなり上の階の、角部屋でした」

「角部屋。いいですね。住むなら当たり案件です。二面採光です」

「まあ、ホテルなので一面だけですけど。バスルームも、水色の可愛い壁で」

「へえ。いいですね」

「ユニットバスでお湯を張るのって、めんどくさいと思ってたんですけど」

「はい」

「アメニティにバスソルトもあったので」

「おお、充実してますね」

「そうなんです。今回は入ってみよう! と思って。思えばそこまで面倒でもないんですよね。お湯を張って、入って、そのまま抜けばいいんですもんね」

「そうですね。自分だけで使うなら、そう不自由もない気がします」

「その日、台風が来てたんです」

「なんとまあ」

「もうすぐその地域に来るぞってタイミングで」

「すごいタイミングで外泊していたんですね」

「でも、日中の用事を終えてホテルに帰ってきたら、急に手紙を書きたくなってしまったんですよね」

「手紙ですか」

「はい」

「よく書かれるんですか」

「たまに。書き文字、好きなので」

「ご自分の字が好きなんですか」

「うーん、いえ、字は綺麗じゃないんですが、文字を書くという作業が好きで」

「読み手に優しくないですね」

「先生、心の機微というものを読み取ってください」

「努力します。続けてください」

「調べてみたら、近くに書店があったので、便箋と、封筒と、ペンと、のりを買いました。封をするシールも買うかどうかで、かなり時間をかけて迷いました」

「台風が来ているのに」

「ええ。台風が来ているのに、です。周りのお店は、ほとんど真っ暗でした」

「台風が来ても開いている本屋さん、ありがたいですね」

「ありがたかったです。しかも、お会計に持っていったら、986 円だったんですけど、店員さんが申し訳なさそうに控えめに、『余計なお世話かもしれないんですけど、1000 円でキャンペーンに応募できますよ』って教えてくれて」

「ご丁寧な方ですね」

「そうなんです。他に必要なものもなかったので、丁重に辞退したんですけど。大阪の人って……あ、行ったの大阪だったんですけど。あと、どこどこの人、っていう言い方がいいのかもわかりませんけど」

「ポジティブな内容ならいいんじゃないですか」

「ざっくりしてるなあ。まあいいや。大阪の人って、『一言多い』なあって感じます。ポジティブな意味です。『今日は売り切れだけれど、明日は 10 時から開けるから、すぐ来てくれたらきっと注文できますよ』とか。バスに乗る時、○○駅に行きたいと行ったら、『そこからどこへ行くの』って聞かれて、どうやらその先のルートまで教えようとしてくれてたみたいでした。
とてもいい意味で『一言多い』んだなあって」

「気持ちがいいですね」

「はい。年齢を重ねるにつれ、人間って言葉を削りがちになっていくのかなと感じていたので、新鮮でした」


「その土地のスーパーって、ワクワクするじゃないですか」

「しますね」

「わかりますか。初めて見る名前のスーパーとか」

「スーパーコンツネ、とかね」

「そうそう! 意外なところで気が合いましたね。コンツネ?」

「昔見かけたスーパーの名前ですよ。続けてください」

「あ、はい。それで、さすがにあまり遅くまで出歩くのもな、台風も来てるし、と思って。書店に行った後、夜ごはん調達でスーパーに来てたんです。そこで最初に見つけたのが、生春巻きで」

「いいですね」

「生春巻きって、魚介が多いじゃないですか。わたし、魚介が食べられないんですけど、それは野菜と生ハムの春巻きで」

「珍しいですね」

「そうなんです。おいしそうだな、と思ったんですけど、でもホテルに帰ったらサンドイッチがあるしなあって」

「ああ、忘れていました。危うくロッカーに一人置き去りにされそうになり、迷惑にもホテルの方に預けられてしまった、ふてくされもののサンドイッチですね」

「彼はふてくされてなんかいなかったと思います」

「本当ですか? 置き去りにされることばかり考えられていたのに?」

「否定はできませんが、この時ばかりはちゃんと向き合おうと思ったんです! そうやって迷っていたら、春巻きは居なくなってました」

「擬人化にはまっていますか?」

「のりの擬人化はいっときはまってました」

「今度調べてみます。続けてください」

「他にも買い物をしました。買い物、楽しいけどとても迷うんですよね。割引のフルーツと、そうじゃないフルーツと。ジンジャーエールと」

「ああ、この日も買ってたんですね」

「この日はお祝いだったので。あとはパンが欲しかったんですけど売り切れで。やっぱり台風だからなのかなあ。続けて行ったコンビニでも、めちゃめちゃ迷って」

「台風の中、知らない土地の書店とスーパーとコンビニに行って、それぞれで散々迷われたんですね」

「結局、パウンドケーキにしました」

「思考の末切り捨てられたパン」

「気に入るパンがなかったんですもん」

「パンはパンであるだけでその意味を十分に満たしているのに、それは傲慢ではないですか」

「なんか嘘くさい言い方だけど確かに……偉そうに言ってすみませんでした。パンの精たち」

「ゆるしましょう」


「今週一週間、仕事の間ずっと掲げていた標語があって。聞きたいですか?」

「特に知りたくはありませんが、聞きましょう」

「仕事は二割、です」

「二割、ですか」

「はい。体力は奪われても気力は侵させないという意思表示です。普段、どれだけ仕事に全力を注いでるかがよくわかりました」

「そんなに熱心に働いていたんですか」

「熱心では全くありませんが、良くも悪くも――いや、ここでは悪い意味ですけど、目の前のことを適当にできない性分なので」

「はあ」

「先生はそのあたり、上手そうですね」

「そうですね。真逆かもしれません」

「というと」

「良くも悪くも、適当にやっています」

「はは、確かに」

「その標語の成果はどうでしたか」

「おかげで気力はさほど奪われずに済んだんですけど、電話口で噛みまくりました」

「どんな風に」

「たとえば、相手が名乗った業種を、自分の業種にしちゃうとか。相手が『横浜法律事務所です』と言ったのを、『川崎法律事務所です』と返しちゃう、みたいな。うち、法律全く関係ないんですけどね」

「それは一歩間違えれば詐欺ですね」

「詐欺です」

「相手の人、ビックリしたでしょうね」

「たぶんベテランさんだったので、何事もなかったかのように扱われました。いっそ笑ってほしかったんですけど」

「ふふ」

「今笑ってくださってありがとうございます。とにかく噛みまくったり言い間違えたりしました。へんてこ敬語使ったり」


 頭の中が、ずっとたくさんの考えに支配されていた。
 仕事は二割。そう唱えれば少し気は楽になるけれど、物理的に脳の領域を奪おうとしているのは、「唱える」なんていう理性の外にある、自分の一部だ。
 自分の感情が大事すぎて泣けてきてしまう。自分に扱える表現は文字しかないのに、文字にした途端チープになるほどの、するどくて繊細で嫌味なぐらい瑞々しすぎる感覚。泣きそうな口の中で、冷たいわたがしのように、持て余しておくぐらいが一番いいのかもしれない。
 ただ道を歩いていて、その風がちょっと涼しいだけで、その場から一歩も動けなくなって泣き出したくなるような。誰に何を訴えたいのかも、形すらもわからない。
 今自分には何かできる、できることがある、と強く思うのに、それが具体化しないもどかしさがあった。
 そうだ、あれだけ必死に毎日やっていた資格試験の勉強も、もう二週間ほど手をつけていない。
 当たり前だ。この感情の方が大事なのだから。


「先生、知ってますか」

「なんでしょう」

「ジンジャーエールには、違いが、ある」

「はあ」

「ほんとですよ。違うんです。飲んだことあります? 三ツ矢のジンジャーエール」

「ありません。最近出たんですか」

「たぶん。ショウガの香りが濃厚で、とっても美味しいんです」

「へえ。いいですね。ちなみに、どうして急にホテルステイの話を?」

「そうですね……ホテル、というか、自分の住んでいる土地じゃない土地に行って泊まることはよくあって。いつも楽しいんですけどね」

「はい」

「その翌日が、自分にとって、人生が変わるみたいな、とても大きな意味のある日になってしまったので」

「ええ」

「前日のその日が、なんだか、特別な日になってしまったんです。何も知らずに、楽しいことに参加したり、友達と笑っておいしいものを食べたり、そんな一日のワクワクや楽しかった気持ちに浸っていることが、すごくキラキラして感じられて。悲観じゃないんです、大事な楽しい日だったなあって、思い出すのがあったかくてまぶしくなったんです」

「そうですか」

「大事な日のその前の日が、こんな風にまた別の大事な日になることがあるなんて、はじめて知りました」

「いい学びだったんですね」

「はい。まあ、翌日に新幹線内で倒れたり、数日後には職場で倒れたりして、結果ここにかかることにしたわけですが……」

「自己管理ができない人を、病院は嫌いますよ」

「すみません」


「先生。さっきは友達以下かって聞かれて、頷いちゃいましたけど」

「はい」

「取り消しておきます。以下ではないです。別物です。」

「なんですか、急に」

「心にもない勢いの言葉はやめよう月間なので」

「なんだか気味が悪いですね」

「先生、先生も心にもない言葉は言わない人ですよね」

「そうですね」

「ここは否定してほしかったかな……」

「機微、苦手なので」

「堂々と苦手宣言する病院の先生」

「医者も人間なので。苦手なものなんか、いくらでもありますよ」


 診察は終わりとばかりに、先生が背を向ける。
 ありがとうございました、と言いながら立ち上がると、お大事に、の声が返ってきた。きっと先生の頭の中は、既に夕食の献立でいっぱいなのだろう。
 いや、本当に今回は他愛もない話をしてしまったかも。
 それでも、先生の声のトーンはいつも変わらない。引き戸を開ける重たさも、待合室のソファ、左奥から二番目のクッションのくたびれ具合も、受付の人がくれる領収書の「負担割合 3」の文字も。
 言いたいこと、伝えたいこと、考えたいこと、話したいこと。自分の中には、山のようにあふれている。その中で、大事な日の記憶を抱えている。好きなものばかりをつめこんだ子供部屋、その中の四角いおもちゃ箱、さらにその中のぬいぐるみと指輪の間に埋もれるようにして、自分の心を探している。
 こういう時間があってほしいと思うし、失いたくないと思う。


※この物語はフィクションです。台風の日はできるだけ屋内にいましょう。

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