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処方箋を出さない診療所

「次の方、どうぞー」

「はい」



「こんばんは。その後、どうですか」

「あんまり変わらずです」

「と言うと」

「常に泣きそうで、実際泣いたりもします」

「そうですか」

「喉の奥が痛くて、押さえつけられてる感じというか。目もずっと腫れぼったくて。視界が常にちょっとぼやけてて、それがいよいよ本格的になると上を向いたりします」

「それはそれは。そうですか」

「神経めちゃくちゃになってるからか、しょっちゅう耳鳴りも起きるし、何を見てもじわりとくるぐらい涙腺がバカになってます。足つぼマット見ても泣けてきちゃうんですもん」

「なんとそれは大変な。そうですか」


「さっきから『そうですか』って、ちゃんと聞く気あるんですか」

「そんなに」

「どうして。お医者さんなのに」

「うちは『処方箋を出さないお医者さん』なんですよ」

「じゃあ何のためにやってるんですか。薬を出さなくても、病気は診られますよね」

「楽しいからですかね。色んな人を見るのが」

「そんな。ひどい」

「ふふ、ひどいでしょう。でも」

「でも?」

「でも、直してほしい人は、処方箋をちゃんと出してくれるところに行きますよ。ここに来るってことは、自分で治せるからなんです」

「ちょっといいこと言いましたね」

「ちょっといいこと言いました」


「先週、泣きすぎて職場で倒れたって言ったじゃないですか」

「はい」

「今日、そのときに介抱してくれた上司と、トイレに行くときに、すれ違って。いつも隣の席ではあるんですけど、改めて呼び止められたんです」

「ええ」

「大丈夫ですか、って。『あっでも大丈夫かって聞くのはよくないんだよねだいたい大丈夫って返ってきちゃうから最近そういうの聞いたんだよね』って、早口に」

「とっても早口。でも、いい人ですね」

「はい。いい人なんです。それで、でもわたしは大丈夫ですよって言ったら、安心したように笑ってくれて。それから真剣な顔になって、よかった、あの日のあなた、朝から目が元気じゃなかったもの、って」

「はい」

「その人は上品な方なので、『目が元気じゃなかった』っていう言い方をしたんですけど、ああたぶん、自分の語彙だったらこうなるんだろうなって」

「何になるんですか?」

「『目が死んでた』って」

「はは」

「笑いごとじゃないですよ。こっちはむしろ生きようとして、必死に泣いてたんです」

「いいですね。生きるために必死に泣くって。悪くない語彙です」

「ありがとうございます。いや、ありがとうございますなのかな」

「いいんじゃないですか」

「まあ……その人だけじゃなくて、反対の隣の人も朝から心配してくれてたみたいで。目の前に座ってる同僚にも、『最近、体調悪いですか』って言われました。最近、体調悪いですか。テニス――あ、今、習い事でテニスに通ってるんですけど、その話を職場でしたことがあって――テニス、行けてますか、って。あの人、わたしのこと妹かなんかだと思ってるのかな。仕事ではわたしの方が先輩なのに」

「はは」

「もう、だから笑いごとじゃないんですって」

「でも、ありがたい話じゃないですか」

「そうですね。いい人たちばかりです。今の自分に何ができるのかって、ずっと考えてたんですけど、たとえばこの人たちの役に立てることが、あったらいいなって」

「そうですね。でも、まずは倒れないことじゃないですか」

「それはごもっともです」


「今日、仕事終わりにラーメンを食べに行ったんですよ」

「いいですね」

「ラーメンのスープの色って、なんであんなに安心するんでしょう」

「何味ですか」

「塩とんこつラーメンです」

「いいですね。おいしそうであったかそうな色ですね」

「ジンジャーエールと、塩とんこつラーメンを頼みました」

「おお、なんでまた」

「泣いてるときにはラーメンがいいって決めてるからです。ラーメンとか、ギョーザとか、うどんとか」

「なるほど」

「ほんとに『なるほど』って思いました? まあいいや。ジンジャーエールは、この1週間、ことあるごとに飲み続けてて」

「すごい。そろそろ体の中からショウガが生えてくるんじゃないですか」

「生えませんよ。ていうかあれって根っこじゃないんですか」

「そうだったかもしれません」

「適当だなあ。まあいいや。ドラストでカナダドライを買って、コンビニで三ツ矢のジンジャーエールを買って、この1週間で唯一まともに外に出た日には、肉そばと一緒にジョッキのジンジャーエールを頼みました」

「シャンディ・ガフ、サラトガ・クーラー、モスコー・ミュール、シャーリー・テンプル、ジン・バック」

「なんですか、急に」

「みんなジンジャーエールを使ったお酒です。呪文みたいでかわいいでしょう」

「モスコミュールって、モスコー・ミュールじゃなくて、モス・コミュールだと思ってました」

「あ、それ、絶妙に文字だと伝わらないやつですね」

「今は直接しゃべってるから、別にいいじゃないですか」

「それはそうですね」

「そばを食べたときも、突然抹茶のパンケーキを焼いたときも、モンブランを3つ食べたときも、ジンジャーエールでした。あ、モンブランのうち2つは、同時に食べたんですけど」

「同時に?」

「2個入りの、あるじゃないですか。スーパーとかにあるタイプの。ファミリー用の」

「ああ。あれをぺろっと食べちゃったんですね」

「はい。はじめてでした。でも最後はちょっと苦しくて、それでも食べきりたいなって気がしたので、つめこみました」

「ごはんは楽しむもの、おやつも楽しむもの、ですよ」

「そうですよね。わかってたんですけど、つい」


「今日、契約書を作ってたんですよね」

「なんの?」

「それは内緒です。お仕事がばれちゃうので」

「お医者さん相手なら、お仕事がばれてもいいんじゃないですか」

「嫌です」

「なぜ」

「ここ、個人情報の扱いとか雑そうなんですもん」

「はは」

「笑いごとじゃねえ」

「それで、契約書が?」

「ああ、はい。とりあえず、人生ではじめて、契約書を作っていました。あれって、どうにかならないんですかね」

「どうにかとは」

「あんな前近代的なもの、いつまでやるんだって話です。今日、作るのに6回も失敗して、何時間も工作してました」

「それはとんでもないポンコツだ。悪いのは前近代ではなく、あなたの要領でしょう」

「それもありますけど。A4の契約書のために、A3の紙から切り出すんですよ」

「なぜ? わざわざA4を2倍の紙に印刷する必要があるんですか?」

「契約書本体を印刷してるんじゃないんです。袋とじのためです」

「袋とじ。あまり堂々と手に取れない雑誌のイメージしかありません」

「名前は同じだけど、それじゃありません。契約書を製本する方法なんです。あれって、見た目はただ帯をつけただけのように見えて、けっこう労力かかるんですよね」

「なるほど、次見るときは気にしてみます」

「だからそれじゃないですって。先生、袋とじのある本なんて見るんですか」

「ご想像にお任せします」

「嫌だなあ。よく知らない先生の本の趣味なんか、想像したくもないです」

「それはそうでしょうね」

「とにかく、何回も失敗したんです。切っちゃいけないところで切って、穴をあけちゃいけないところに開けて、長さを間違えて、幅を間違えて、のりを貼るところを間違えて。工作、得意だったはずなんですけど、どうやら得意なのは、おおざっぱでもできるものだったみたいです」

「すごい間違え方ですね」

「やっぱり泣くのをこらえながら作業していたので」

「なるほど、そこにつながってくるんですね」

「そこにも何も、関係ない話はしていません。ここは病院なんですから」

「確かに。続けてください」

「でも、集中してやるのは楽しかったので。少し前、こうやって泣く前の話ですけど、自分は研究職の方が向いていたのかもしれない、と思っていたことがあって。でもそれって、考えてみたら当たり前でした。ものを書きたいんだから、そりゃ集中する仕事の方が好みですよね」

「はあ」

「先生、聞く気あります?」

「そこそこですかね」


「昔、面接で」

「バイトの?」

「いえ、就職の」

「はい」

「就職の面接で、友達が、泣きそうになったって言ってたんです」

「泣きそう、ですか。それは、面接がつらくて?」

「いえ。でもその時わたしは、なんで突然泣きそうになるのって笑っちゃったんです。でもそのあと自分も受けてみて、気持ちがわかりました」

「泣きそうになったんですか」

「なりました」

「それはどうして」

「気持ちを伝えたいからです。伝えたいこと、気持ちがいっぱいあるのに、それが上手くアウトプットできなくて、納得のいく、十分に表すことのできる言葉にならなくて、悔しいんです。気持ちばかりが急いて、言葉からはみ出した部分が、涙になります」

「へえ」

「今回も、そうだったのかなって」

「ほお」

「自分の中にいっぱいある、なにかの感情に追いつけなくて、困って、でも自分の体はそれをアピールしたくて、とりあえず目から水でも出しておくか、ってなったのかなって」

「なんだか、あんまりおしゃれじゃないですね」

「おしゃれで泣いてるんじゃないですもん」

「そうか。それはそうですね」

「でも、このいみがわからない1週間にも、いみがあったような気がして、それは嬉しいんです」

「そうですか」

「汚い字が並んだ、文字でいっぱいのノートも、泣きそうなときに15分で流し込んだコーヒーも」

「コーヒー、もったいないですね」

「はじめてでした。お昼ご飯を食べ終えて、それでも泣きそうで、どこかに逃げ込みたくて。目の前にあったコーヒーショップに飛び込みました」

「飛び込まれるコーヒーショップ」

「店員さん、明るくて優しかったんです。アイスラテを頼んだら、今日の豆はブラジルですって、丁寧にお辞儀をして渡してくださいました。わたし、馬鹿舌なので、豆の違いとか、わからないんですけど、わざわざ教えてくれたことが、嬉しくて」

「はい」

「そこで、泣かないように踏ん張りながら、ノートにいっぱい文字を書いていました」

「どんなことを?」

「何かしたいけれど今は上手くできない、ただずっと泣きそうだと」

「はい」

「それでも、もらったものに応えたいんだって。自分の真ん中の、『何かしなきゃ』みたいな、あいまいだけどだいじな芯が、強く揺さぶられ続けてる。たとえば自分の言葉がその人に届かなくても、その人からももらったものを、自分も誰かに手渡したいんだって。自分にできることは、絶対あるはずだって」

「やりたいこと、あるんじゃないんですか」

「あります。でも上手くできる気がしないんです」

「はあ」

「今は、『何ができるか』を考えるだけで心がいっぱいになってしまうんです。書き出す準備ができているものはあります。大人になれない世界で、人生最後の課題として、初対面の相手と一緒に曲を作る話。愛されたい傭兵と、愛したい踊り子の話。友達に恋してしまった女の子が、神様の調度品を拾う話。死神に取りつかれた男の子が、ぬいぐるみや宇宙人の片思いを応援する話。魔法使いと男の子の、友情をめぐる話。土台ばっかり固めてしまったものや、10万字以上のエピソードだけ積みあがってしまったものや、まだ人物の名前も決まっていないものや。自分の中には、たくさんあるんです。まだ形にはできていないけれど、確かに生きている物語たちが。
 ちゃんと形に変えられるものにしたい。でもそうやってまた準備ばかりに集中していたら、書き出せなくなるから。だからとりあえず、毎日『なにかを書く』ことにしているんです。今日は、ここに来ることでした。昨日は、久しぶりに、100均で買った原稿用紙を破りました」

「どこの100均ですか」

「近所のダイソーです」

「惜しい。わたしはキャンドゥ派です」

「惜しいのかな。でも、キャンドゥ派ってちょっとレアですね」

「レアなんですよ」

「本当は、いきなり書き出せたらいいんですけど」

「何を」

「小説を」

「そうですよ。そうするべきなんじゃないですか。うん、それでいきましょう」

「先生、今日の晩御飯はなんですか」

「どうしたんです唐突に。明太子ですよ」

「やっぱり。おいしいものが待っているから、早く診察を終えて帰りたいんだ」

「おっしゃるとおり」

「否定しないんだなあ」

「本当のことですから」

「明太子、わたしも最近食べました」

「そうですか」

「ちょっといい明太子、先週届いたんです。ちょうど連休だし、と思って頼んでたんですが、こんな毎日泣いているところにやってくるとは思いませんでした」

「涙の海で泳げよ、明太子くん」

「なんかそれ、絶妙に聞いたことがありそうでなさそうで嫌だなあ」

「同感です」

「話を戻しますけど、それで書けたら困っていないんです」

「と言うと」

「とりあえず書けで、書き出せるのなら、形にできる自信があるのなら、こんな怪しいお医者さんのところに来てませんよってことです」

「ハイ。言い訳ですね。そんなの全部、言い訳です。自信がないからやらないなんて、じゃあどうしたらやれるんだって話です。準備なんていらないと思います。結局努力なんてそれしかないんです。やればいいんです。それだけでしょう」

「急に正論で、ムカつくなあ。でも、そのとおりです。そのとおり、なんですよね」

「どこかの偉い人が、やろうと思えること自体が才能だから、歩き出すならすでに才能は十分あって、あとは努力しかないんだって言ってました」

「どこの誰ですか?」

「忘れました。偉い人じゃなかったかもしれません」

「うわ、ソースの信頼性ゼロだ。でも」


 息を吸った。


「どうして涙が出てくるのか、なぜこんなにも自分の中の何かが揺さぶられているのか、全然わからないんですけど」

「はい」

「あの時、あの場所で泣いた自分の記憶が、きっとこれからも自分を支えてくれる気がするんです」

「そうですか。それは」

「どうせいつもの適当な相槌でしょう。『それはよかった』、ですか?」

「そうですね。それは」


「それはよかったな、って」



「先生、ちゃんと食べてます?」

「どうしたんですか、急に」

「なんか、一つぐらい先生のこと、気遣っておこうかなって」

「ありがとうございます。食べていますが、明太子の差し入れならいつでも歓迎です」

「明太子なんて、自分じゃなかなか買わないですもん」

「それは残念です。なら、今度はモンブランを一緒に」

「ファミリー用の、2つ入りを半分こでもいいですか?」

「ゆるしましょう」

「神父様ですか」


「先生、ありがとうございました」

「はい、お大事に」


 待合室に戻る。受付の人に呼ばれて、お金を払う。それらしい金額。診察券と一緒に渡された領収証には「負担割合 3」の文字。一体何の保険だろう。内科ではないし、心療内科でもないし、外科でも皮膚科でもない。当然処方箋は、ない。
 スリッパから靴に履き替えて、入口の自動ドアをくぐると、「またのご来店をお待ちしています」という自動音声が流れた。なぜ自動音声。
 というか普通病院って、また来ることは喜ばれないんじゃ? それって、不健康ってことだもんね? そもそもここって、店じゃないのでは。
 古びた自動ドアが閉まる音を聞きながら、足はパンプスのクッション地を踏んでいる。外は、とっぷりと暮れている。相変わらず視界は曇り気味だけれど、目の表面は乾いていた。今日はラーメンを許すわけにはいかないな。買い物をして、帰ることにした。
 処方箋を出さない診療所。何の病気を診ているのか、そもそもそれは病気なのかわからない。
 それでもたまに、ここを訪れる。またのご来店を喜ぶ自動ドアと、話を聞いてるんだか聞いてないんだかわからない先生と、3割負担の領収証をくれる受付の人がいる。
 まだ、自分にできることはいっぱいある。明日も、生きていけるなあと思う。


※この物語はフィクションです。困ったことがあったら、ちゃんとしたお医者さんにかかりましょう。

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