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五木寛之『海を見ていたジョニー』に対する寺山修司の評論への批評

五木寛之コレクションの音楽小説名作集に付属しているノートに掲載されている寺山修司の評論『黒いアルバム』の抜粋に対しての意見


五木寛之『海を見ていたジョニー』と寺山修司の評論『黒いアルバム』の概要

ジャズピアニストのジョニーが、戦争から戻り、少年とその仲間であるベーシストの健ちゃんに、もうピアノは弾けないと言う。それでも演奏をせがむ彼らに対して、ジョニーは「聞いてもらえばわかる」と言い、ピアノを弾く。少年と健ちゃんらはジョニーの演奏に感動する。ジョニーはそれに絶望する。なぜなら、ジョニーは、ジャズには演奏者の人間が現れると信じており、戦争で多くの人を殺した自分には良い演奏はできないと考えていたからだった。


寺山はこれに対し以下のように論じる。
ジョニーにとってジャズは人生そのものであり、記憶であるため、ジャズを弾くことが記憶のアルバムをめくることになる。それが嫌だからジャズを辞め、人生をおりてしまったのである。そしてその心境を五木の戦争の記憶と結びつけ、記憶を持ち続けることによって自らの罪と対峙するために、書き続けることになるのである。


寺山の評論に対する批評


確かにジョニーの考えとして、ジャズが人生と切り離せないものであることがあるのは正しいだろう。しかし、ジョニーがピアノを弾きながら自らの記憶を思い出していたこと、そしてその記憶が受け入れられなかった(この記憶を寺山は黒いアルバムと表現している)、という解釈には同意しない。

ジョニーはなぜ、「弾いた方が早い」とピアノを少年やけんちゃんに聴かせたのか。黒いアルバムをめくるのが嫌であるのならば、そんなことはしないはずだ。自分自身のためにも、そして自らが牧師的な、先達的な立場にあった少年のためにも、自らの暗い記憶、人を殺したことが乗り移る音楽を聴かせるだろうか。

ということは、記憶と演奏が結合しているというよりも、人間性と結合しているといったほうがいいだろう。ジョニーは変わってしまった自分の人間性をみんなに否定してもらいたかった。なぜか。自分が否定されることで、この世の真理としてのジャズの孤高さを証明したかったからだ。ジャズはその人間の真の姿を映し出す鏡として、客観的で崇高なものとしてあってほしかったのだ。ジョニーにとってはそれだけが信じるにたるものだったのだ。

しかし、それは否定される。正しい人間ではなくなり、悪人となった自分でさえも、ジャズが弾けてしまうのだ。ジャズはその人間性を覆い隠す仮面とさえなりうるのだ。まさに「単なるテクニック」でしかないのだ。
神の裁きにも似た認識をジャズに対して持っていたジョニーは、信じていた神を失う。価値基準を失う。なんのために正しく生きるのか。人殺しでさえ、仮面を被れば賞賛されてしまう世の中で。本物など何一つないのではないか。私の真実なる思いは、別に人殺しをした人間のこころと変わらない。そして、本物の私を、本物の、ごまかしのない自分を誰かに伝えることなどできない。

この絶望感こそがジョニーの感じた本当の心情なのではないか。
もっとも記憶に対する寺山の批評はそれとして面白いものである。ただ記憶を持ち、それを忘れずにいること。その記憶と向き合い続けることの積極性を説く寺山の説明が、自殺したジョニーとそぐわないことは言うまでもないだろう。


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