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疑問に思うという才能

「人間は考える葦である」というのはフランスの哲学者パスカルの有名な一説である。「人間ひとりひとりはとても弱いが、人間は考えることが出来るという点で偉大である」という事らしい。人間は地球上で他に類を見ないほどの反映をしているので、考えることが出来るというのがいかに強力な武器であるかというのは疑いようがないように思う。

なので自分は当然、
人間はみな自分の考えで行動している。それが一見奇妙に見えても、その人の中には一本筋のある自説があるはずだ。
・森羅万象を理解することは不可能なので、考えても答えが出ないことについては「諦める」ということも必要だが、それは各々なりの考えの到達点であり、自分の理解を超えることを明らかにすることだ。
と信じて疑わなかったし、少数の例外はあったとしてもそれはあくまでマイノリティで、自分はマジョリティの側にいると考えていた。

が、実際に仕事を通して社会というものを感じるなかでは「上司に言われたからやっただけだ」「昔からこの作業をしている作業を踏襲しているだけで理由については考えたこともない」という人が一定数居る。こういった言動は上記に当てはまらず、考えることを放棄したとしか思えない。しかし、そういった人間の方が大多数ではないかと感じて以下を考察した。


純粋な悪意

小学生のころ私は質問魔で、父を大いに困惑させたと思う。ある日の走行中の車内で手持無沙汰手に持っていたボールを上に投げそのままキャッチするというのを数回繰り返したとき、ふとした疑問が湧き父にこんな質問をした。
「なぜ走行中の車の中で投げたボールはその場にとどまらず、自分の目から見れば後ろに飛んでいかないのか」自分自身はボールを真上に投げているつもりなので空中で上下運動をする一方、自分は車と一緒に前に進んでいるので、手元に返ってくることが不思議な現象のように思えたのだ。

ある程度、中学生にでもなれば慣性の法則を説明すれば事足りるだろうが小学生にはそれを理解するだけの基礎知識がない。さりとて父は疑問に思った自分を一笑に付すことなく、いろいろな説明をしてくれた。が、小学生の私は前提知識が必要だという理解が足りなかったので「なんかややこしい話だなぁ」という感想しか持てなかったように思う。腑に落ちたのは時間がたってそれを中学校で履修してからだった。

自分自身は幸運にも真摯に向き合ってくれた父がいたからこそ学びを得ることが出来たが、社会という広い単位ではそういった人たちばかりではない。つまり、当時の自分と同じように自分の疑問は簡単に理解ができる明瞭な答えが存在するという勘違いと、理解している人が自身の解像度に合わせて説明することは当然だという傲慢を、当然の権利のように要求する事がいかに横柄な態度かという事を学ぶ機会だ。

大人は答えない

社会に出るとそういった状況は一変する。これまでは誰かに質問すれば疑いようのない綺麗な答えが返ってきた環境からガラリと変わり、答えが存在せず「自分で考えろ」というパラダイムシフトが起こる。

©カイジ 福本伸行

カイジで描かれた多重債務者たちのように、この変化についてこれない層が一定数居るのではないか。

これまで受動的に生きてきた人間はそもそも理屈を理解せずとも、誰かが答えを持っていて自分は受益者として無限にその答えを受け取れる立場であることを疑わない。何か疑問があるときはその回答者が自分の目の前まで来て、あるいはやむを得ない場合に限り自らが直接赴き、納得がいく説明をされるのが当たり前だという人間が存在するのだ。

そういった人間達は時折騙されることもあるが、致命的な搾取でなければその事実にすら気が付かず日々を過ごす。

軽微な搾取

例を挙げる。一昔前、街中で携帯電話を契約するとき端末をタダ同然の価格で販売する見返りの一つとして、よくわからない有料サービスを登録させられる経験はないだろうか。
初月無料で、費用発生前にすぐ解約してもいいから、とにかく1か月試してみてくれと頼まれる。

2022年時点でのサービス一覧。https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/02251/110700002/

これは一定数の解約忘れを前提とした携帯キャリアの利益貢献施策なのだが、ユーザー目線では無駄な機能ばかりなので解約方法やタイミングを確認したり、それを忘れないようにカレンダーに登録するなど無駄な面倒をかけさせられた。

他方、受動的に考える人間はそういった考え方をしない。なぜならば店員という上位に立つものが”答え”として必要だと言ったものをいちいち疑う理由がないからだ。特に説明も理解せず、とにかく必要なんだという結論だけ理解して承諾する。
ある日ふと携帯料金が周りの人間より高価であることに気が付く。そこでまたショップに行き整理券を引き数十分後にショップ店員が出力してくれた明細を見て、ようやく自分に必要のない有料オプションに加入し続けている事実を理解する。そうして声を荒げてこういうのだ。
「私はそんな説明聞いていない。騙された。金を返せ」と。

子供の特権

この事象の厄介なことは、通常の高校教育終了時までは何でも質問する姿勢自体は禁忌されるものではないという教育側の自己犠牲の精神で許容されているということだ。

学校にいれば好むと好まざるとにかかわらず、常に新しい知識を授けられる。教養とされることを学び、疑問は常に先回りされた美しい答えが用意されており、わからないことがあれば先生が分かるまで個人単位で解像度を合わせて教えてくれる。改めて考えると本当に大変な作業で全国の先生方に頭が下がる思いだ。

が、この素晴らしい自己犠牲の裏では受動的な子供たちにとって、自分自身が疑問に思いそれを自分で検証するというフェーズが丸々失われる。勿論教育として自由研究であるとか対処はしてくれているが、そもそも受動的な性質の子供たちにはストレスのかかることだし、クリアしない限り進級させない等の強制力を持たない中ではクオリティが担保出来ず、効果は限られるだろう。

この点は家庭か塾、あるいは習い事で補完せざるを得ないが、いずれにしろ金や手間がかかるので機会の平等はなく個々人の状況に依存する。つまり積極的に思考する人間は排斥しないものの積極的な保護もされていない一方、受動的な態度の人間はそのまま許容され社会に飛び立つのだ。

的を得ない疑問

結局、元々考えるタイプの人や親、あるいは先輩や上司に恵まれた一部の人は自身で考えることが大事だと学ぶ一方で、そういった機会がない人たちはそのままスルーされて世の中に出てしまう。

よくSNS上に並ぶ愚痴として何でも聞いてといったのに質問したら怒られたというものがある。多分に上司側の問題の可能性もあるが、一方で会社は利益追求団体であるし時間は有限なので、いちいち全ての問いに綺麗な問いを返すことは上司の仕事でないという事実も合わせて考えるべきだ。自分が一度通ってきた道であるからこそ悩むべきポイントについては懇切丁寧に教える意思はあるが、逆に調べればわかることにまで質問を繰り返されれば冷たく返されても仕方がない。

大人になってからも考え方を学ぶという事はいくらでも出来るが、そもそも疑問を抱くという発想のない人が、短期的にはお金にならない=生活に直結しない何かを考える習慣を身に着けることのハードルがいかに高いのかは想像に難くない。

結論:疑問を抱けない故の他責思考

結果として冒頭のように何も考えていないような発言が出てくるわけだが、これは本人たちにとってなんら悪気のあるセリフではない。なぜならば、自分がわからないことや前例踏襲主義なのは誰かが教えてくれなかったせいであり、自分の責任などどこにもないと本気で信じているからだ。
彼らにとって学習とは誰かから強制されるものであるし、相手が必要ならば自身に理解させるまで伝えるのが相手の責任範囲であるので、自ら行動するという労力を払う理由がわからないのだ。

現代においてある程度の事実はネットで検索すれば教えてくれるので、そういった端的に答えを求めるという事は数十年前に比べて段違いに早くなった。

しかし、一部の人は引き続き人に質問し続けるだろう。理解できる言葉で、完璧に、熱心に伝えてくれる、存在しない大人を求めて。







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