無能であれ〜山上宗二記〜
利休当時の茶の湯を知るべく、茶書をいろいろと読んだが、最も刺激的なものの一つが『山上宗二記』だった。
山上宗二の人生を鑑みると、この書は、秀吉に追放され逃れた地にて、それまで溜まりに溜まった思いを一気に放出させるために書かれたという一面を見る。もちろん、純粋な「数寄」への希求心も感じられるが、それ以上に自身の茶の湯が最後まで天下に認められなかったことへの憤怒や不満もそこに感じられる。前半に記された名物道具の再評価などにも、その想いが大いに表れている。
私はこの書が好きだ。その中でも気に入っている箇所がいくつかあるが、特に、「茶の湯者は無能であれ」という言葉が好きだ。これは、茶を修めるために心懸けることを十項目でまとめた「茶湯者覚悟十体」の章の最後に書かれている。
以下、引用。
●原文
一、茶湯者ハ無能ナルガ一能也ト紹鴎弟子共ニ伝、注ニ曰、人間ハ六十雖ニ定命其内身ノ盛成事ハ廿年也、茶湯ニ不断染身サヘ道ニモ無上手ハ彼是ニ心ヲ懸ハ悉下手之名ヲ可取、但シ物ヲ書文字計ハ可赦ト云々、
(引用『山上宗二記』熊倉功夫)
●現代語訳
一、十条 茶の湯者は無能であることが一番の能力である、と紹鴎は弟子たちにいっていた。あらためて説明すれば、人間の定命(寿命)は六十歳までというが、そのうち心身ともに元気であるのは、二十年である。常日頃、茶の湯にのみ専念していても、たったの二十年では「上手(巧者)」といわれる域に達することはできないのである。これは茶の湯に限ったことではなく、どの道でも同じことである。ましてや、あれこれに分散して力を注げば、すべての分野で「下手」と評価されるようになってしまう。ただし、例外があり、物を書く文字については、あれこれの書風に手を出しても許される、といわれている。
(引用『現代語でさらりと読む茶の古典 山上宗二記』竹内順一)
人間の寿命は60年で、元気でいられるのは20年しかないけれど、それだけでは「上手」になれない。それなのに、あれやこれや手を出して器用貧乏になっている時間はない。しかし書は例外だけどね、と言っている。
ここに、山上宗二の純粋美学が見て取れる。逆説的に読めば、決して「有能」になるな、ということだ。
我々は生きていく限り、その都度、無数にある選択肢から行動を決定せねばならない。人間は自堕落な生き物であるから、どうしたって効果的で、効率的な選択肢を選んでしまう。要するに楽な道だ。しかし、長年その行為に専念していれば、誰もが自然と「有能」になってしまう。まさに象牙の塔だ。それを宗二は否定している、と私は捉えている。皆様の周りにも、有能ゆえに、楽な動きしかしない人がいるのではなかろうか。
つまりこの言葉は、世阿弥の言う「常に初心忘れるべからず」に他ならないだろう。経験を積み、それに準じて知識、技術が高まったことを「成長した」と感じるのではなく、その度に楔を打ち、その時を「初心」として常に振る舞うべき、と宗二は考えていたのではなかろうか。ちなみに、宗二は書中の「一期に一度の参会」など、世阿弥の影響を大いに受けている。
稽古や茶会を見ていると、人は何故か、礼儀を知れば知るほど、初心者を蔑んだり、我が儘に振る舞ったりしてしまう傾向が強い。人間はどこまでいっても無能であり初心であるにも関わらず、自身を有能だ、とか悟った、などと思うことは大変嘆かわしいことだ。お茶ができることと、何も知らない人の差など、人生においては無いと言って良い。むしろ、何も知らないでいることを尊ばねば、経験者のその先はないのではなかろうか。
400年前から、現代の人への戒めを放つ宗二の鋭い言葉。ぜひご一読されることをお勧めしたい。
武井 宗道