曦宗達日記(2020年1月後半)

二〇二〇年一月十七日

今日は新スマホとのやりとりなどで新しい気持ちでいたために何やっても良かれだったが、やっぱり無意識のうちに疲れて後々ツケが回るという最悪なオチ・・・。起きる僕に休みなどない。而も誰もいないから自分で奮い立たせなければならないから余計疲れる。周りはどんなふうに課題を始めるのか?
バイトがいやで休む感じだが・・・・・・・・・・・。いや、極力やらん方がいいだろう。ならばせめてメモ帳を家帰って開くという単純簡単労力かからんとこから始めようか。
全てが批評活動につながるなら、夜の散歩も・・・コンビニ訪店も・・。


二〇二〇年一月十八日

元々歴史に名を残すために生きている僕が、なぜ消費のことに考えているのか、よくわからない。
本物の批評家とは、研究者の様にフィールドワークや検証をして、それもまとめることもあるのだろうか。僕は現実で批評をして生き、創作で虚構を生きる。人間は常に現実を見て、現実の中、完全現実の世界で生きようとするが、バランスが悪くなって死んでしまうのではないのだろうか。僕らはバランスを図るために、現実と虚構(幻想)を生きる必要があるのではないのだろうか。そのための芸術であり、僕は常にバランスを取りながら生きている。


二〇二〇年一月十九日

ついに女神は微笑み、そして舞い降りた。


二〇二〇年一月二十日

よく鍵の締めの確認をノブや窓でガチャガチャ確認することがあるが、僕はこれが無限ループ並みにやってしまう。泥棒に入られたくない思いで、何度も鍵を開けては閉め、確認を何度もする。ストレスが溜まってしまい、余分な体力と時間が削られる。確認自体は悪いことではないが、アンバランスになってしまっては元も子もない。どうすれば、あまり気にせず、気にしすぎずに済むのだろうか。全力で鍵締めの確認をするのはどうだろうか。意識に体力をかなり消耗させるが、確信の精神は持てるのであろうか。「何事にも全力に。」と多くの実業家などがいうがその真意とは?

短歌創作の際は何かと日常的や虚構、幻想詠を好むかも。

もしオタクとして終生生きるなら、そのための知を磨く必要があるだろう。
短歌が年取っても美的であり続ける塚本邦雄の様に。

家族を持つと周りのつながりが薄くなる可能性ありか?
配慮されて連絡こないとか。知識人とか。

バイトを母親がせがむが今の僕の状況を分かっているのだろうか?仮に分かったとしても真に理解してくれるのか?サポートするのか?

現実としての批評、虚構としての短歌。ギャップを求めるあまり短歌が私的、幻想を求めるものとなっているかもしれない。

学問に向かない、合わない人間はいるのか?

スランプは、頭に他の作品を盛り込み過ぎているからではないのか?

バウハウスからデザイン、商業的作品は生まれたのか?

二度と指定席券売機は使わん。

朝早く起きたらご飯3合くらい炊いてもらう。


パラパラでも良いから本読めばそれは血肉にチョットでもなる。

小説:物語だから万人ウケ
評論:
ある分野の説明。その分野の対象が消費者一人一人の好みによって反応が変わる。
批評家、評論家には見えるファンを作り、関係性などを明確に。

批評も論文もあまり変わらない?

決断をしないことが最もな後悔。

ストレス解消か何なのか分からないが、どーしてもネットで不必要な動画とかを見てゲラゲラ笑った後、虚無を感じながら風呂入った後頭変わって真剣に読書することはどうなのか?ネットで不必要な動画を見ることはストレスの解消にはなるかもしれないが、いつ終わるか分からない。でも有意識に時間決めて休む気持ちでいると逆に疲れる。

別の意味での現代アート。バウハウス。だが、コンセプチュアルアートではなく古典的なものから織りなす。複合芸術世界。

個人第一、個人強固を求める僕は悪なのか?
やりたくないことに苦労して結果を出すよりやりたいことに苦労して結果出す方がいい。インターンシップ研修で就職活動について膨大な苦労があると見て判断した。
僕には就職は向かない。

毎日キリキリなのを理解してもらえれば良い。

私は普段映画やその他作品の批評的感想や批評家モドキの批判文やらを見て疑問に思ったこと、可能性無限大を探すために批評を学ぶ志しもあるのだが、母親の様にTVばかり見て客観性があまりなく、間違った常識や偏見で判断する者にもならず、父親の様に知がついても、それを普段から上手くアウトプットできず、急にひけらかす者にもなりたくない気持ちからやろうとしているのが一番大きいかなー。
これらをどう解釈するかは皆様次第ですが、これが私の実情であるということを理解してもらいたいと考えます。簡単に言えば、毎日キリキリしています。


二〇二〇年一月二十一日

言語で生きる。美術作品作れなかったから、美術作品を後押しする人間。批評文と研究論文の違い、見分け方。

学ぶ→休む。というより学ぶ×休む。休みたくないのに休みたい。だったら休憩や褒美を与えながら動き続ければいいのでは?

努力↓常に努めること。これを自分に合わせて続ける。
一つのことに達成感、感激、興味が無くなったらそれをやめ、別の行動に移る。
ただやるときはそれに集中。

批評も短歌もビジネスも、「教養」いわば知が必要。(精神的よりどころ)
ちなみに筋トレは肉体的よりどころ。人はこの二つのバランスをうまくとる必要がある。


二〇二〇年一月二十三日

だからバイトなんてやりたくないのだ。お金の不安もあるが、実際開いてみると急なストレスがかかるから。
初心者ほどバイトが怖いことはない。初心者は失敗が多いが、それを耐える、カバーできずにトラウマとなることは多い。だから、そういった人たちに強要したり諭すことは難しいだろう。だから、お客さんとの対応、コミュニケーションを必要とするバイトほど怖いものはない。
バイトは悪いイメージを持つことしかできないからできない。でも無理すると体重くなるからやらない方向へいく。だからもし、やらずに後悔したとしても、自分はやれないこととやらなかったこと、それのジレンマに今から苦しむしかない。楽するなと思われがちだがこれも現実。精神や心臓には悪くかかる。


二〇二〇年一月二十四日○

若気の至りは多分消せない。消そうとするとストレスがかかり、また、至りは情熱と刺激を呼び起こす凄いものである。後々歳をとって若気の至りを後悔をするかもしれないが、こうした運命に男は特に出会わなければならない、悲運な存在でもある。

安らぎの場としての短歌も、熾烈な新人賞の取り合いとなってと化する。こんな世界にずっといて、僕もそれに飲まれる様では元の希望を忘れてしまう。


二〇二〇年一月二十五日

無意識のうちにインプット、分析をし、無意識に新しい領域を生み出す。そのまま行動するやつは救われる。私はどうなのか・・・。


二〇二〇年一月二十七日

何かを極めることによって何かを犠牲にしてまで努めなければならない。無意識にサボって不必要な動画を見て空虚に襲われるのをなくすこともある意味で犠牲ではないか。だが、それは無意識になって自分がコントロールできなくなることの阻止。ここは自分自身の有意識(モチベーション、やりたいこと)を守ることにつながり、トレーニングでもあるのではないのだろうか。もう無意識よりも意識を持った主体性の方が良きであることを知ったなら(それが真実かは人それぞれ負だが)、常にアンテナをはって変化や観察に身を置いておくべきかと思った。無意識やストレス解消に関しては筋トレと鉄道に任せようか。

やべえ、あまりにも今月お金を注ぎ込んでしまったから生活費が・・・。といってもバイトして働く気もないしお金はあまり使いたくないし・・・。
図書館で勉強する以外方法はない。

僕が考える重要性の強度
学問・勉強>バイト

環境は与えられているのだからそれを最大限に使え。

改めて主体性、能動性の必要性を知った。

狭い場所、ロフト、低い天井。↓心臓キリキリ。心理学的にあり得る。

生産性のために動く。

自分のやりたいことを仕事に。

帰宅後のダラダラをなくせ。中途半端になって動画見るくらいなら仮眠をとれ。ほんの数分だけでも理性を磨くトレーニングですぞ。


二〇二〇年一月三十日

今日とある先生とカフェに行ってたら、批評家、作家と兼業の話になった。僕はそこから就職をどうしようかと考えていた。本当なら会社に行った方がいいかもしれない。しかし、インターンシップで幻滅した自分を思うと立ち直れることもないし、批評とかも人生経験の一環か(これは良しとして・・・。)思っていたが、住職は筋トレジムのないことを除けばいろいろな意味で良いかもしれない。檀家様からの信用や、幼い頃からの寺の感性は消えないから。ただ、平日が何をするのかが最も気になるポイントだ。もし何もなければ短歌、小説、批評ができるのだが・・・。基本家にいなければならないのか?東京にいつでも行けることはないのか?(例えば月一の歌会とか・・・。)曦家で新たに教育機関みたいなのを作っていくのも良しかとも考えていたが・・・・・・。疲れる。考えるだけで悩むし疲れる。やっぱり不安しかのこらない。ストレスになるなら別のことを考える。
個人雑誌等を作って売り込み、周りからの意見を聴くのもアリだが、短歌はプロからの意見も聞いて自分自身の評価を受け、考えてみる必要がある。

不安↓先が見えないから心が空っぽなのかもしれない。

足の切断を感じた。短歌を作ることに熱中することは本性を表している証。だから短歌作りはやめられないし時間かければかけるほど腕が磨かれていく。だが、熱中する分、タイマーをかけることすら忘れるもしくは鬱陶しくなる。
ちなみに人の集中力は15分周期と聞くが、15分も経つと短歌すら作るのが苦になるのか?短歌を作るにしてもぐだぐだになってしまうこともあるしそれでタイマーかけれず、余分に時間を取る。しかもぐだぐだになるから決断力鈍ってしまうという悪循環である。いや、そうならなければならなくなるのか。一度考え込むと夢中になる分決断力も減る。まさにジレンマ板挟み。地獄というよりどうすることもできないこと。だから1時半に切り上げてシャワー浴びに行ったことは随分とマシ、良き状態である。今を見るしかなくなるのだ。(残念ながら時を過去に戻すことはできなくなるのは事実。)

ぐだぐだ力>決断力


二〇二〇年一月三十一日

光の歌人・曦宗達
やっぱり光や幻想が好きだからそこから着想を始めるべきかと今は思う。

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