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バッハと自然と私と…

こんにちは!ViOLiNSTUDeの篠崎爽太郎です。

最近、またバッハの無伴奏ソナタに取り組んでいるのですが、

過去の偉人たちがまとめた演奏法やバッハの自筆譜を読んで、

練習=研究していくうちに

自分なりに気づいたことがあるので書いてみたいと思います。



19世紀にバロック音楽が復興した際、演奏家や批評家たちは19世紀的な観点からバロック音楽を解釈しました。

つまり

私たちからすると作曲技法的にはここはこうである、

とか、

ここを更に分かりやすく演奏するにはこうする

とか

全くもってバロックに対するある種の配慮がない、考古学的センスの乏しいスタイルでした。

しかし彼らの努力がなければバロック音楽が一般に広まる機会は更に遅れ、もしかしたら永遠に聴衆がバッハを耳にする機会は来ず、だんだんと西洋音楽の歴史から忘れ去られていったかもしれません。

そういう意味で彼らの功績は間違いなく人類にとって善いものであったと思います。

まあそれは置いといて、

バッハの無伴奏ソナタとパルティータの奏法を分かりやすくまとめてくださっている名著、

『バッハ 無伴奏ヴァイオリン作品を弾く バロック奏法の視点から』著:ヤープ・シュレーダー

によると、
メインのメロディがベースラインにある際にも過度に強調しすぎてはならないということなのです。

つまり、ヴァイオリンで和音を弾く際には下から上に弦を鳴らしますがメロディラインがベースラインにあるからと言って上から下に弾いてはならないということです。

しかし19世紀的解釈ではベースラインが主題の場合は上から下に弾いてベースラインを強調するべし
ということなのです。そうすればどこがメロディラインか一目(一耳?笑笑)瞭然ですし、メロディラインが消えてしまうということもありません。

どちらが絶対的な正解なのかということではないという前提のもと、考えたいのですが、


バロック音楽の奏法においてはなぜ、ベースラインを強調してはならないのか。

僕が思うに、

ベースラインを強調してはならない
のではなく

ベースラインを強調しなくてもよかった。その必要がなかった。

ということなのではないでしょうか。

どういうことかというと、

(出だしスピった話になりますがひかないでみんな聞いて笑笑)

バロック時代の人々が音楽を通して何を聴いていたか。これを考えてみましょう。

結論から言うと、

自然の調和に耳を傾けていたのではないでしょうか。

自然界において、例えば、陽の光と木の影はただの現象でしかありません。
しかし人間の目を通すと途端に、暖かい光と冷たい影といった具合に意味を持ったものになります。

光と影を対象として捉えて、主従関係を設定して描くというのが実は19世紀的な、人間の主観による表現方法で、

これに対して
バロック奏法の表現方法は、人間が観測できる自然現象を演奏にあてはめる努力であると。
つまり、上から下に生えてくる草花がないように和声は常に下から鳴らし、
一度鳴った音は既にそこに在るので現実の我々の耳から聴こえなくなっても認識上存在し続けられる。だからベースラインをわざわざ強調する必要がない。

自然との距離感が19世紀以後の我々の感覚とは全く違っていたのではないでしょうか。
もう少し、自然をありのまま捉えることに関心があったのではないでしょうか。

(ここらへんの話、僕、チームラボの猪子寿之さんの大ファンなんですが、思想的になんだか、影響をすごく感じる笑笑)

我々人類は時を経ていくうちに自然と共に生きることが難しくなってしまいました。
個人として、主観的に人生を切り開いていくことも生きていくうえで大切なことですが、時には自然のありさまを心に携えてゆるやかに生きる意識があっても良いのかなとバッハを勉強しながら思った次第であります。

ということを考えながら今日もLUUPに乗ってお散歩するのでした。(この頃のブームはLUUPに乗ることです笑)どゆこと。


ViOLiNSTUDe 篠崎爽太郎

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