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「宙吊り」のまま共存する勇気 奥村隆『他者といる技法』に寄せて

奥村隆は『他者といる技法』において社会を、独立した主体が、相互に承認を供給しあうために織りなす連帯の形式と捉えた。奥村の図式でキーとなる概念は3つ、承認、アイデンティティ、そして葛藤である。以下、簡単にこれらの概念をさらっていく。

まず承認とは、文字通り「他者を認めること」を意図する行為の一つである。わかりやすく、他者が何かを要求してくるシーンを思い浮かべると良い。お水をください。あなたの採用しうる行動は、基本的には要求を認めること(水を出す)、拒絶すること(水を出さない)の二つである。前者が承認、後者が拒絶と呼ばれる行為だ。

承認には重要な特徴がふたつある。まず、承認の担い手となるのは、常に私以外の他者であるということだ。私自身が私を承認することはできない。なぜか。私は、他者の存在しない純粋な自己空間における私を想起し得ない。私は生まれた時から他者の視線に晒され、他者に応えることで私を形作るからだ。だから、私が私を認めたいと願う時、それは私がどのように他者に対して現れているのかを想像する形で行うことしかできない。つまり、他者からの承認された私の像を、私が追認するという形でしか、私自身を承認するという技法は成立しないのだ。

もう一つの特徴は、承認を授ける他者が「主体的」な個人である必要があるということだ。個人が「主体的」な存在であるとは、あらゆる他者から切り離され、独立した意思を持つということだ。承認は、「主体」が自らの意思で授けることに根源的な意義があるからである(無理やり承認させられるという行為が社会的に有効たりうるかを考えてみよ)。ゆえに、誰かの従属下に置かれた他者、たとえば古代の奴隷のような存在は自らの意思を自由に行使する「主体」たりえず、従って他者を承認することはできない。

そして、承認を授ける他者が「主体」であることが何を意味するかといえば、他者は常に私を拒絶する自由を持ちながら、自らの意思で私を承認するという「二面性」が常に存在するということだ。他者には私を承認する義務もなければ、責任もない。にも拘らず、自らの意思で、好きこのんで私を承認するからこそ、承認という行為には価値が生じるのである。

他者からの承認という行為を私達が切実に必要とする理由は、それが私たちのアイデンティティを形作るために不可欠な贈与物であるからだ。アイデンティティとは、他者によって承認される自己の像に対して(人から見た私)、私が思い描く私(私が思う私)との同一性を保とうとする心の働きである。この動きを通じて私たちは他者に提示する「私」と内なる「私」の和解と統合を常に試みている。試験に合格して褒められる私、会社でひどく叱責されて赤面する私、一人ぼっちで部屋の中でぼーっとしている私、そして他でもない今ここにある私。全てがバラバラなものとして認識されていれば、相互の矛盾によって私は分裂して病んでしまう。アイデンティティは「正常に」「社会的に」生きるために不可欠な心的機能であり、それを確立させるための承認のやり取りこそが、私たちの社会の様々なダイナミクスを生み出している。

しかし、承認が「主体的」な他者によって与えられること、そしてそれが自己の社会的生存=アイデンティティの保持に不可欠であることは、深刻な葛藤につながることになる。まず、承認という行為は、他者が「主体的」な存在であるということ、すなわち私がいつでも拒絶されうるという可能性を常に孕んでいる。この他者の主体性=不確実性の存在は、私に対して他者を思い通りにコントロールしたいという欲求を惹起する。しかし、仮に私が思い通り他者がどのように私を承認するかを制御できたとして、そのような他者は「主体」たりえず、もはや私に承認を与えることはできなくなってしまう。このジレンマ=他者を思い通りに制御したいが制御したら意味がないという状態こそが、私が他者と相対する際に経験する葛藤である。

そして、この葛藤への対処は、他者の「主体性」を巧妙に制御するいくつかの「技法」を通じて行われる。つまり、主体性を完全に奪うわけではないが、ある望ましい方法で(=私に都合よく必要な承認を与え、私が都合の良い承認しか与えないですむ)しか発揮できないような制御を施すことで、承認の交換回路を確保しながら他者を飼い慣らすテクノロジーを利用するのだ。例えば、他者に「レッテル」を貼ること(良い子、悪い子、ガイコクジン)、他者の「内心」を否定すること(あなたはそんなこと思う人じゃない、きっと疲れているのね)。私たちが日々使いこなすこのようなミクロなテクノロジーこそが、奥村が「他者といる技法」と呼んだものに他ならない。奥村は各章で、社会のある場面においてこうした「技法」がどのように発揮されるかを丁寧に検証する。家庭における親子関係、メディアにおける日本人による外国人の表象、そして公共空間における階級ごとの振る舞いの規範、etc。これらの検証を通じて、奥村は非対称な関係の中で、私がいかにして、生活空間における他者を都合の良い存在へと矮小化するかを静かに暴いていく。詳細はぜひ、本書を紐解いていただきたい。

奥村は論を進める中で何度も、他者と「そのまま」共存する可能性を想起することを私たちに促す。私たちがあまりにも使い慣れている矮小化の「技法」が作動すれば、他者の根本的な不確実性=私が捉えられない姿を逃し続ける。もっと他に、承認しようとすることを、あるいは理解しようとすることさえを超えて、ただ他者のそばにいることはできないのだろうか。奥村はそう訴えかける。他者といる技法という単語には、私たちが他者を承認と理解のフレームに押し込めるために利用しているテクノロジーを指し示すとともに、それを超えたなんらかの共存の形態を示唆する概念として、ダブルミーニングを託されている。

私は後者を、「宙吊りのまま」共存する技術と言い換えてみたい。立ち止まったままで、常に表情を変える他者の隣に静かに寄り添いながら、「あなたのことを聞かせて欲しい」と語りかけ続けることは、できないだろうか。その関係に名前が付かずとも、目の前の他者を名指すことはできなくとも、その曖昧で不確実な状態に好き好んで滞留しながら、社会を織りなすことはできないのだろうか。とても難しい問いだと思う。承認の交換が私たちの生活に不可欠な以上、私は他者をある静的な存在として仮定した上で、つまり他者のうちにある「本質的な何か」を想像した上で、それを承認することを否応なしに求められる。私が商人のために捉える他者の像が、常に他者を捉え損ねると知っていたとしても、目の前の他者の不確実性に私たちは耐えられないからだ。

でも、「宙吊りのまま」の関係を他者と「約束」することはできるのではなかろうか。あなたがどんな姿を見せようと、そしてそれが私の理解を超えていようとも、私はあなたに問いかけ続ける。あなたは何者なのか。何を考えて生きてきたのか。どんなことを楽しいと感じるのか。どんなことを悲しいと感じるのか。いま、何を思って毎日を生きているのか。それが移り変わっていくことを知りながら、しかし私はその全てをあなたとして捉えようとし続ける。「宙吊りのまま」の関係のうちに止まる約束を交わすことこそが、実はもの凄く根源的な意味での「承認」なのではないかと私は思う。ある一面ではなく、移ろい続けるあなたの存在そのものに向き合う関係を約束すること。これが「宙吊りのまま」共存する勇気に他ならない。

本編はゴフマンやブルデューなど、社会学の大家を引きながら精緻に展開されていくのに比して、私のものは雑多な感想文に過ぎないが、本書から受け取ったエッセンスは大体このようなものだ。それにしても、読書を通じて感涙したのは久方ぶりだった。こんなにも優しく世界を見つめる手つきを持つ人に、私は出会ったことがなかった。社会の中で苦しみながら、社会の中で生き続けようとする人を肯定しようとするその言葉は、きっとあなたにも届くはずだ。三木那由多氏の書評と合わせて、一読を強く勧める。


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