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国籍や国境を越えたその先 ④失恋

台湾を舞台にした吉田修一さんの小説『路(ルウ)』の中に、日本が統治していた戦時中の台湾で暮らす日本人と台湾人の親友同士の会話で、その後のふたりの人生に大きく影響を与える重要なシーンがある。
無事に戦地から台湾に帰国したら、お互いの友人である日本人女性に結婚を申し込もうと思っている、と台湾人青年が日本人青年に打ち明ける場面。
(以下抜粋)
『「もし無事に帰国できたら、俺は一生、曜子さんを・・・」
「待て、お前は日本人じゃない。二等国民との結婚を曜子さんのご両親が許すだろうか」
気づいた時には、もう言ってしまっていた。取り返しのつかない言葉だった。
「・・・いや、違う。曜子さん自身が本当にそれで幸せになると思うかどうか」』
という一節。
日本人は一等国民で台湾人は二等国民。
国籍によって等級・階級が分けられていた時代。現代なら人種差別と非難されるが、今から100年前にも満たない戦時中は政策でそのように定められていた。
私がその歴史的な事実を新聞の記事や書物を通してではなく、祖父から身近なこととして聞いたのは高校を卒業した春、18歳の時。
大学受験を終え、通う大学の報告を兼ねて祖父の家に泊まり、それまで直接話をきけなかった台湾のことや日本に来た理由などを聞いた時だった。
日本語が決して流暢とは言えない祖父。独特な発音とイントネーションの日本語から何度も「イットウ」「ニトウ」「イットウコクミン」「ニトウコクミン」という言葉を聞き、とてもショックだったことを覚えている。

小説で描かれているような「二等国民であるがゆえに親から結婚を許されない」とか「相手の日本人女性の幸せが疑われてしまう」のは随分昔、戦時中やそれ以前のこと、と思うかもしれない。
だが、「タイワンジンハ ミンナ ジェンイン ニトウ (台湾人は皆全員二等)」
と「ぜ」の音がいつも「じぇ」になることが強く印象に残っている祖父の口から聞いた数年後、大学生だったボク自身も似た経験をしている。

大学三年生当時付き合っていた日本人の彼女と将来のことに話が及んだとき、
「私の両親は国籍とか気にするから、ソウくんとは結婚できないと思う」
と申し訳なさそうに彼女から告げられた。
性格が悪いとか癖を直してほしい、なら「分かった、努力する」と言えるし、安定した職に就いてほしいとか昇進して稼いでほしい、なら「うん、頑張る!」となるが、国籍が、と言われると、自分ではどうすることもできない。
「それって、もう付き合っててもアカンってことやん」と、ショックと納得できないけど反論する言葉が出てこないもどかしさ、悔しさ、なんで国籍でこんなみじめな思いをしないとアカンねんという情けなさを噛みしめるしかなかった苦い経験。
国籍自体は「人」のウィークポイントではない筈なのに、自分の弱点を不意打ち、もしくは狙い撃ちされたようで、失恋以上に、人間そのものを否定されたようなダメージだった。

いつも向こう三軒両隣まで聞こえそうな大声で「ただいまー」と帰宅を知らせるボクが暗い雰囲気を醸し出して低い声で「ただいま」とささやく姿に、
「どないしたん?なんかあったんか?」
と母に尋ねられ、急に涙が溢れ出そうになったが、必死で堪えたて作り笑顔を浮かべた。

家に彼女が遊びに来ると、お茶やお菓子を用意してくれたり、夕食もよく作ってくれた母は彼女のことを気に入っている様子だったので、告げられたことをそのまま母に伝えると、華僑二世として神戸で生まれた母さえも傷つけてしまいそうだったので、
「なにもないよ、疲れただけ」
と答えてすぐに自分の部屋に上がり、しばらく閉じ籠った。
時間が経つにつれてジワジワと悔しさや哀しみが増し、怒りの感情も湧いてきた。
悪人でも日本人ならよくて、善人でも中国人はダメなんか!
何人(どの国籍の人)かよりも、どんな人間かが重要と違うんか!
見た目や国籍よりも、心とか考え方とか中身の方が大切なんと違うんか!
いまごろそんなこと言うんやったら最初から付き合うなよ!

なかなか感情の整理ができず、座布団に八つ当たりをしたり、寝ても覚めても最後はやっぱりどうすることもできないこと(結局は国籍を差別されたこと)への悔しで涙を流した大学生のボクがいた。

その当時の傷は長く自分に暗い影を落としたが、時間が経ち、冷静になって二人の関係を振り返ったとき、国籍の問題がなくても、その彼女とは上手く行かずに別れていたと思えた段階で、もう心が疼くことは全然(じぇんじぇん)なく、全部(じぇんぶ)青春時代の楽しくも苦い想い出に昇華されている。

そんな形で失恋したボクがいる一方、その反対で、自分の存在をなんの偏見も無くありのままに受入れてくれた嬉しいことも同じ時期に起こった。
大学で所属していた体育会スキー競技部の同期が、ボクを彼の友人に紹介した時、名前からボクが日本人ではないと思った同期の友人が、
「え、ソウくんって中国人なん。日本語すごい上手やなぁ」と言うと、
「なに言うとんねん、こいつ俺らとおんなじやで、なんも変わらんで」
と忖度せずに言い放ったのを聞いて、嬉しくてジーンと胸が熱くなったこともよく覚えている。

自分をよく知らない友人ではなく、毎日練習で共に汗水を流し、合宿や試合遠征で寝食を共にした自分をよく知る仲間が放った言葉。それが、普段から感じてる本音を言っただけ、みたいなあっけらかんとした言い方だったので余計に嬉しかった。

他の部員から「私の母親が韓国人やから、ソウくんの気持ち、わかるよ」と言われた時も、自分だけがみんなには分からない境遇と感情をもっているという、一種の「孤独感」から解放され、自分のことを分かってくれている仲間、共感できる仲間がいると知り、元気をもらえたこともよく覚えている。

小説『路』の終盤に、親友の日本人にかつて二等国民と言われて日本人女性との結婚を諦めた台湾人とが再会して語り合うシーンがある。
『「・・・俺たち台湾人ってのは、つらかったことより、楽しかったことを覚えているもんなんだ。つらかったことなんかすぐに忘れて、楽しかった時のことを口にしがら生きていく。それが俺たちだ」
勝一郎はやっと顔を上げ、子供のように袖で涙を拭った。
「でもな、勝一郎、それを教えてくれたのは、あんたら日本人なんだぞ」』

この部分は、中国人として日本に生まれ、国籍のことで何度も嫌な思いをし続けてきた私自身にとって、とても共感できる一節。
実際、嫌な思いとは比べ物にならないくらい沢山の楽しいことを経験したのが自分が生まれた日本であり、大切なことを教えてくれ、今も日々嬉しいことを共有しているのも多くの日本人の先輩、友人、後輩達。その多くの人が差別とか区別、人を優劣・上下関係で見たりせず、垣根を感じずに接することができる人達だと肌感覚で伝えられることは、当り前のようなことだが、自分にとっては決して当り前のことではないのでとても嬉しい。

物事を分けて考える「分別」という言葉は多くの場合「分別がある」というように、良い意味で使われることが多いが、仏様の教えでは「分け隔てる」ことで悩みが深まり、争いが生じるので、物事を善悪、優劣などに分けない考え方、つまり「無分別」の大切さを説かれている、と教わったことがある。

何も分からなず全部ごちゃ混ぜに一緒くたにした「無分別」は如何なものかと思うが、物事、相手のことを理解した上で「無分別」の精神で接してもらえると嬉しいし、自分もそのような心で人と繋がっていきたいと思っている。

岡本・保久良神社の梅林

国籍や国境を越えたその先④をお読み下さりありがとうございます。

つづく


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