見出し画像

後ろ髪を引かれる思い 3/3

母が12月2日の木曜日に入院してから今日12/30で4週間が過ぎた。
今日で6度目の面会。毎回オムツか吸水シートを買っていくので、いつの間にか母の病院に行く時は林真理子さんのエッセイ「ルンルンを買っておうちに帰ろう」を捩(もじ)って「オムオムを買って病院に向かおう」というタイトルを付け、明るい気持ちで病院に向かうことにしている。
もう変わり果てた母の姿を見ても驚かなくなったが、二回目の面会日のショックはやはり今でも鮮明でそう簡単に消えそうにない。
**********************
初めて面会に訪れた入院翌日はまだ薬を服用しておらず、母は相変わらず不安や焦燥の渦中で不穏な言葉を発し続けていたが、二週目、母は別人になっていた。
車椅子に座っている、というより、背中と首が曲がり、頭が項垂れ(うなだれ)、まるで『あしたのジョー』のラストシーンのようだった。

『あしたのジョー』の最後のページ

近づいて母が眠ているのかを確かめようと車いすの前でしゃがみ込み、顔を覗き込んでハッとした。虚ろな瞳がこちらを向いている。だが焦点が合っていないようで眼球は動かない。
「こんにちは」
「・・・・・」
「カステラもってきたよ」
「・・・・・」
「オムツはさっき看護師に渡したからね」
「・・・・・」
表情は変わらないが、眼球が少し動き、顔をゆっくりと動かす母。
「ママ、聞こえる?」
しばらく沈黙のあと「どなた?」と消えるような小声で私に尋ねる。
(え、ホンマに分からへんの?)
「息子のシュウホウですよ」
数秒間無言のあと「シ、・・・、シュ」
「そうやで、思い出した?」
ようやく目の前にいるのが誰か分かったようで、
「あ~、シュウホウかぁ」と私の名前をとてもゆっくりと言った。
あらららら、こんな風になるんやな。
「精神科に掛かると、特に入院治療になると、強い薬で人が持っているエネルギーとか活力を奪い取って、人格、性格まで変わってしまうことがある」と認知症専門医の相談員や友人から聞いていた通り、本当にそうなってしまったようだ。
半分ほど目蓋が閉じた虚ろな瞳で息子を見る母。
変わり果てた姿を遣る瀬無い思いで母を見る息子。
「ママ、カステラ食べる?」持ってきた普通のカステラと抹茶カステラをテーブルに置き、お茶を出す。
母は何も言わずに目を閉じて動かなくなる。眠っているのか、眼を閉じているだけなのか、最初見た時と同じように項垂れたまま微動だにしない。
面会時間は30分。このまま何も話せなくてもいいし、カステラを食べなくてもいい。許された30分、とにかく母の側にいることにした。

母の掌を握ると、温かくはないが冷たくもない。浮き上がった血管には血が流れているし脈も感じられる。
母の掌を両手で包み、ゆっくりさすっていると、擡(もた)げた頭をゆっくりと上げ「たべる」とこれまたゆ~くりと言った。
「カステラ食べるん?」
今度は返事をせず、僅かに頷いて意思表示をした。
そうか、食べるんか。食べてくれんやね。
急に涙で目の前のカステラが滲んで見えた。
包みから出したカステラを母はゆっくり口元に運び、時間をかけて半分食べた。差し出したコップに半分ほど注いだお茶もゆっくりだが飲み干し、再び目を閉じた。
「もういらんの?」
無理させることもないし、喉につかえたり誤飲で咳き込ませてもよくない。
「あ・・のぉ‥ね~」
食べるとエネルギーが生まれるのか、母が話そうとしてることが嬉しかった。
「わ~・・た・・・し・・は・・・ねぇ」
入院する前、過剰な興奮や錯乱状態でまともに会話ができる状態ではなかった母とは真逆で、確かに狂気は鎮まったのかもしれない。だが、魂までも抜き取られたような母の変わり様は正直ショックだった。
結局、いくら待っても、母が言いかけた「わたしはねぇ・・」の続きの言葉は無かった。

母の興奮、絶叫、錯乱を鎮め、こんな姿にする薬の正体を知りたくて、母が入院後に投与された薬とその量を看護師に尋ね、手帳に書き写した。
病院を出ると、もうすぐ陽が沈む時刻。
急いで海岸へ向かうと、丁度太陽が水平線の向こうに沈むところだった。

東播海岸

歩いて10分ほどの山陽藤江駅から電車に乗って、すぐ家路に着く気にはなれず、海岸沿いを歩いて気持ちを整理したかった。
病院を出る前、受付で明石駅までの距離を尋ねた時、
「あぁ無理です、無理です。明石駅までは遠過ぎて歩くのはちょっとぉ」
と大袈裟に反応された時点で、
「そうなんですね」と答えながらも、(そう言われると反って歩いてみたい)と既に歩いて明石駅へ向かうことを決めていたような気がする。

歩き始めると3艘の小さなボートがあった。
この小船では対岸の淡路島へ向かうのも安全とは言えなさそうだが、瀬戸内海から紀伊水道に出て、太平洋の向こうに広がるカナダへ無性に行きたくなった。
20代後半から18年間過ごしたバンクーバーの街並み、港、森や緑豊かな公園、熊に遭遇した山、キャンプ場、雪山などが次々と目の前に浮かび上った。大自然だけでなく、通勤路、職場の仲間、友人、子供達の学校や先生、当時の生活もどんどんと想い出された。
あ~、懐かしいなぁ、と顔を上げると、東から押し寄せる夜空に吸い込まれそうな紺青の空に三日月が浮かんでいた。

紺青の空に浮かぶ月

1時間程で明石川の河口に辿りつき、さらに15分ほどで明石駅に着いた。
受付け係の人は「無理です、遠過ぎてちょっと」と言ってたけど、なんや、これやったら歩けるやん、と思った。
距離にして5㎞ほどだろうか、ゆっくり歩いたり、立ち止まって海や空の色を眺めたりしている間に、精気を失った母を見た瞬間のショックは随分と和らぎ、後ろ髪を引かれる思いも薄れていた。

ある人にとって「無理」「大変」「難題」と思われることでも、他の人にとってはそれほど大層なことではなく「容易」「普通」「簡単」な場合がある。

<見て⇒感じて⇒表現するプロセスとその余波>
どんなことにも当てはまるかもしれないが、人それぞれ物事の見方、感じ方、表現方法は異なる。
最初の見方の段階で対象物が大きく見えると、大きく感じて表現も大袈裟になってしまう。
大きな(または大事な)ことを矮小化してしまうのもヨロシクないが、困難に見え厄介と感じることも、見方を変えたり、感じ方を微調整することで表現方法やアウトプット(結果・成果、産出されるもの)が随分と違ってくる。
そのアウトプットは周囲へ伝わり、影響(好影響または悪影響)を及ぼし、さらにその自分が産み出した大小善悪さまざまな影響は余波となって自分に戻って来る。
だから「やっぱり」この一連のプロセスの中で最初である物事の見方がとても大事で、対象物を良いように、肯定的に、優しい眼差しで見ることを習慣化していくことが、明日以降の近い将来、そして遠い未来を明るくするヒントになるように思う。

うん、もう大丈夫。落ち込んだ姿を子供には見せたくないし、見せずに済みそう。
今から電車に乗ったら20時前には三宮阪急に着いて閉店直前の値引きで良い食材が安く手に入るかも。ちょっとええ肉を買って帰ろか。
どんな時もやっぱり「増やしたいのは笑顔です」やから。
(後ろ髪を引かれる思い 1/3, 2/3, 3/3 おわり)

浜辺で焚き火をするカップル

☆☆☆☆☆☆
<後記>
上記の内容(3/3)は入院2週目のことですが、4週目となった12月30日、母との面会を終え、JR三宮駅で新快速を降りてからも、母の心の孤独や絶望感などを思い、交錯する感情を整理しきれないまま地下街を歩いていると突然、
「いやぁ、やっぱりソウさんやぁ。久しぶりぃ」
「背が高い人が歩いて来るなぁ。もしかしてと思ったら」
と明るい声で話し掛けてくれるラン友の親子ふたりと久しぶりに遭遇。
ふたりの明るさや表情、優しい言葉で余計に涙が出そうになりながら、自分が孤独でないこと、友達の存在に救われていることの有り難さを感じていました。
若い頃から比べると色んなところが衰え始めているものの、これでもまだ頭は普通に働いているように思えているし、色んなことが今まで以上に大切で、当り前だと思っていることは実はとてつもなく有り難くて、今の自分は幸せで感謝しかないなぁ、という気持ちで年の瀬を迎えることができました。
明るく声を掛けてくれたお二人に感謝です。
☆☆☆☆☆☆

最後までお読み下さり、ありがとうございました。
母がショートステイを出た経緯は前回11/24の「暗雲上の青空」に記しています。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?