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当たり前って絶対に当たり前じゃない

カンボジアから帰ってきた少し後。

「君の膵臓をたべたい」の映画を1人で観ました。

ぼろぼろ泣きました。

その時、ちょうど彼氏とプチ喧嘩をしていたときだったんですけど

今、隣にいるのが当たり前だと思っているけれど
もしかしたら明日、
その当たり前は永遠に失われてしまうかもしれない。

だとしたら、日々小さなことで喧嘩して
ふてくされてる場合じゃないなって本当に思ったんです。


カンボジアから帰ってきて思うこと

カンボジアでの日々は、確かに現実でした。
非現実的だったけど、圧倒的に現実でした。

でも、こうして日本に帰ってきて1か月も経てば、
あの時に当たり前だったカンボジアの空気や温度、
みんなが話していた言葉、仲良くしたくれた人の笑顔や声。

全部、どんどん遠い記憶になるんです。

みんなは変わらずカンボジアで生活していて生きているはずなのに、
それすらも本当かな?ってあやふやな気持ちになる。

そういうときは写真を見返します。

そこに写る自分や友達を見て、
「あれは間違いなく本当だったんだ」って思い出せる。

でも、仮に写真が無かったら。

「あれは夢だったのかも」って、
思ってしまってもおかしくないような心境です。


例えば大切な人と永遠に会えなくなったとしたら

考えたくもないけれど、自分にとって大切だと思う誰かが
永遠に会えない距離の場所に行ってしまったらっていうことを想像します。

一緒にいた日々がとっても楽しくて、大切で。
だからこそ絶対に忘れられない思い出も沢山あって。

でも、時間は誰にでも等しく流れていきます。

良くも悪くも、その人の記憶は
自分の頭の中から徐々に遠のいていって、
全部は忘れないにしても、思い出せないことが増えてくる。

大切な人の死を乗り越えるために記憶が風化していくことは、悪いことではないかもしれない。


一緒にしたらいけないのかもしれないけれど、

それって、今の私でいう
「カンボジアでの生活」と少し似ている気がするんです。


記憶の欠片にできるもの

記憶が風化していく中で、
当時の記憶が1番蘇るものって写真だと思います。

文章でももちろん蘇るけれど、写真は絶対に真実なんです。
文章が嘘を吐くとは思わないけれど、少なからず人の解釈が入るものだと思うから。

あと、動画は個人的にはリアル過ぎて嘘みたいな面があるなと思っていて。
どうしてもテレビを見てる気分になっちゃうんですよね。

その点、瞬間を切り取る写真だと、
その前後の記憶を補填しようと頭が働くし、文章ほど解釈を限定されていない。

写真ってすごい大事な、記憶を残すためのツールなんだなって。
(動画や文章も大事なツールですよ)

東京に帰ってきてそれを実感してから、
写真を撮る頻度が増えた気がします。

当たり前の日々は、当たり前じゃないから。

日々、記憶の欠片をつくっていかないとと思います。


ご清聴、ありがとうございました。

#東京 #日記 #思い出 #写真

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