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『文化』を買う。

中古のものが苦手だ。

どんな人間が着たかわからない服が苦手だ。どんな人間が使ったか分からない家電が苦手だ。性能的に差異がなかったとしても、古着なんかは特に、他人の匂いがするから苦手だ。

自分で所有物を汚す分には全く気にかけないのだが、柄や汚れから使っていた人間の生活が見えるものは苦手だ。
他人の生活は往々にして、汚い。自分の主体としての意思決定が伴っていないから汚い。ポテトチップスで汚れた手も、ちょっとしたタンニンのシミも自分のものでないなら嫌だ。

自分の生活は自分が1番わかるので、自分で汚したものや、自分が新品として持っているものは一向に汚れても構わない。

他人の生活が物品を通して透けて見えたり、生々しい息遣いとしてグロテスクに主張してくる。


しかしこれが本なら途端に話が変わってくる。本は往々にして新品は高いが古本になった途端に、ある程度金銭的な価値が下がる。
僕は古本なら好きだ。文庫本やハードカバーなど活字の本に限定するが。
なぜなら本を売る人間は、貧乏で崇高な魂の持ち主だからだ。
例えば「資本論」の文庫版(岩波文庫)がブックオフで100円だったとする。これを売った人間は資本論を読むくらいの文化レベルを持っているが、皮肉にも資本レベルが追いつかなかったので売ってしまったようである。

こういうように、そこにあるものから「売った」という事実を通して生活を推測できる場合には、僕にとって本の価値が上がっているような気分になって、希望小売価格より幾分か高くなったとしても、買ってしまいそうな魔力を帯びたものとなる。

本がレアであればあるほど良い。
それは一般的な物流と比例していくものではあるが、田舎の古本屋で、カンデル神経科学の古本は滅多にない。あの本を買って売るような人間がいるとも思えないが、仮にそれが売られていた場合には自分が新品で持っていたとしても買ってしまうだろう。

こういう話をしていると、逆説的に「なぜ内容を知っている本を買うのか?」と問うてくる人間もいるが、その場合には、紙の本で手にとって図書館で読んだ本が自分の手中に他人の生活の空気をはらみながら収まっている。この快感を共有できないことだけを残念に思いながら、右の口角だけを上げる不器用な笑い方を披露することになる。

「春の絵巻」を売りたい方がいましたらぜひご一報ください。

古本を買うということは、相手の文化レベルや、本を取り巻く文化を買うということになる。良い。

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