美少女理学序論「美少女のいる風景」

概要:物語が神や精霊として擬人化されること、現代では美少女がその機能を担うこと、従って全ての事物は美少女であり得ること。


 本稿は2015年1月に時代錯誤社より発行された「月刊『恒河沙』184号」所収の「美少女のいる風景」に加筆・修正を施し、同団体の許諾を得てここに掲載するものです。

 海外への意見発信のために、全文の英語訳を以下のページに掲載します。文法上の誤りの指摘・表現の改善案などあればコメントにてお寄せください。


0 序

 ――私は、なぜかよく人から気味悪がられた。
 でも、私は気にならなかった。
 こんなに、こんなにたくさんの人がいるのに、その中のほんの少しの人に気味悪がられても平気だ。
 私を気味悪がる人は、みんな『人間』の人ばかりだったけれど。

(甲田学人『Missing12 神降ろしの物語』)

 本稿は、何よりもまず人類の進化と発展のための礎として捧げるものである。現代におけるあらゆる人の営みを貫き留める原理、私の思考を規定し、また私と同年代の少なからぬ人々の思考を規定しているであろう二つの観念について本稿では詳らかにする。それこそが「物語」と「美少女」である。

 本稿の大部分は2015年に書かれたが、その内容は2022年現在においても十分妥当する、否、今ますます有用性を増しているように思われる。七年の間に変化したことを挙げるならば、バーチャル・リアリティ(VR)技術の発達により、2015年時点ではまだ後景に隠れていた「自己像としての美少女」という側面が注目を集め始めたこと、一方で美少女が衆目を浴びる機会の増えた分、美少女表現の倫理をめぐる摩擦が世界中でますます激化していること、などがある。このような時代状況にあって、今改めて「美少女とは何か」という根本的な議論を再び盛んにすることには大きな意義がある。今後も私は美少女についての論考を発信していきたいと思っているが、それらは全て基本的に本稿で述べる考えを土台とすることになる。

 本稿の前半では、人間の思考が「物語」という単位で構成されていることを述べる。これは知能を発達させた人類が、生存のために今ある環境に適合していくことについてだけでなく、まだ到来しない環境、今の形とは違う自己を言語によってシミュレーションする能力を得たということである。そしてその物語が、古代においては神や英雄によって、現代においては「美少女」という概念によって記号化され、思考による操作の対象となって新たな物語を生み出すことを述べるのが後半である。物語と美少女とは、擬人化という知的操作を通じて緊密に結びついている。本稿を通して読者諸賢には、単なる性欲の対象を超越した「美少女」なる存在が持つ本当の力について理解いただけるものと確信する。

1 物語

 それらが実在するか否かは比較的重要なことではない。要点はつまり、この宇宙があたかもそれらが実在するかの如く作用するという点にある。

(伝 ブロディ・イネス)

1ー1 物語の機能

 物語を字義通りに「物を語る」ことと解するなら、人間の言語活動の内にあるものは全て物語であると言ってよい。「何が―どうする」という最小限の主述関係が言語化されてさえいれば、そこでは確かに何かが語られている。あるいは主述関係をなさない一単語であっても、発せられた状況によって「~がある」「~が欲しい」などを補うことができる。物語とはただそれだけのものでしかない。言語は人間の専売特許ではなく、バリエーションの多寡はあれ、人間以外の動物も物語を語る。

 しかし、人間ほど物語に依存して命を繋いでいる動物は他にいない。人間は目の前にないものや実在しないものについてさえも、言葉を用いて思考し、思考を伝達することができる。この能力が人間に、身の回りの範囲を超えた社会的連帯を可能にした。言語と想像力との結合が人間を人間たらしめた。天敵への対処も、狩猟採集も、他部族との交易も、言葉を介した連帯によって飛躍的に効率化された。

 社会が複雑化して以降、目の前になく、物語を通じてしかその何たるかを窺い知ることのできないものに、人間は命を預けてきたと言える。そうできるためには、単なる客体の記述に過ぎない物語からでも自分自身の行動指針を引き出す能力が必要であろう。その能力の最も直接的な表れが呪術である。

 ジェームズ・フレイザーは呪術を「類比呪術」と「感染呪術」に分類した。類比呪術は、「類似した行為は類似した結果を生む」という観念に支えられた行いで、藁人形に釘を打つことで敵対者に害を与えようとする行為はその典型例である。対して感染呪術は「接触していたもの同士は離れても影響を及ぼし合う」という観念から生じた呪術を指す。類比呪術と感染呪術は人間の持つ最も基本的な心理の一つで、世界のあらゆる文化圏にみられると言われる。

 類比呪術の観念が、物語と行動指針とを橋渡しした。例えば自然観察の結果として、降雨が天上にいる何者かの意思によって起きると考えられたとする。そしてその考えが、人間の英雄が天上の何者かと交渉することで首尾よく雨が降ったという物語として語られたとする。だが、これだけではまだ一回きりの過去の出来事の記述に過ぎない。そこから「自分たちも同じように天に要望を伝える儀式を行って、同じように雨を降らせてもらおう」と発想するのは類比呪術の思考だ。物語の前半と類似した状況を自ら生み出すことで、物語の後半と類似した結果が起こる。あるいは物語を語ること自体が、それを実現させるための呪術行為であり得た。

 このように物語に駆動された行動が社会に根付けば、元の物語がどれほど正確に自然を反映していたかは人々にとって重要ではなくなっていく。人々は物語を維持するために、行動をわずかに修正したり、物語の解釈を変えたり、技術開発によってより確実に物語を実現させようとしたりする。そこまで物語の維持にこだわるのは、物語が言葉を介して広く伝播し、面識もない人々の間に紐帯を生み出し、それによって大きな事業の実現を可能にするからだ。土地や生活はそれぞれに異なるが、物語はそのような違いを飛び越えられる可能性を持っている。

 さらに、物語は語り伝えられるうちに変質していくものでもある。その性質の一つの表れとして、個々の物語の構造はそのままに、他の物語と関連付けられることでより大きな物語の体系を形成する、ということが起こる。例えば雨乞いや疾病治癒などの自然への働きかけは、はじめはそれぞれ別個の自然観察、別個の物語に基づいていたかもしれない。しかし、そのような物語が増えてくるにつれ、「雨の神と畑の神は夫婦神である」「病の神は死の神の配下である」という具合に、別々の物語同士が結びつけられていくようになる。あるいは異なる文化圏同士が接触した時には、「こちらの雨の神とあちらの雨の神は同一の神である」という形をとるかもしれない。

 変質を許容しながら自己を複製するという在り方は情報が普遍的に持つ性質だが、縒り合わされて複雑な物語の形となることで、一部が書き換えられても本質を失わない――それ故に恣意的な加工さえも容易にする――という、伝播に有利な特性が獲得されたと言える。塩基配列で書かれたテキストである遺伝子が、一部に変異が入っても生命としての性質を失わず(失う場合もありはするが)、自己複製を続けることを思い起こしていただければ、このことは容易に理解されるだろう。

 こうして、個別の物語たちを包含する大きな物語群、「神話」が形成される。そこから引き出された行動指針の集合が宗教となる。物語は人の行動を規定するから、語る範囲の広い物語はそれだけ多くの人々に影響を与えることになる。そのために、共同体の首長が社会を統治しようと思ったなら、あるいは人々が自ら説明範囲の広い理論と生活の安心を求めたなら、自ずと物語は大きくなっていく傾向にある。

 以上のことを、人類は先史時代までに経験した。しかし近現代に入って、人間と物語との関係は急速に変容していくことになる。


1ー2 物語の変容

 かつての物語は単なる空想ではなく、村に雨を降らせ、新しい命を育む力を有していた。少なくとも古代の人は、それらが物語の力であると信じていた。では、宗教の影響力が弱まったかに見える現代においては、物語もまたその力を失ったのだろうか。そうではない。

 強力な物語とは、「こうすればこうなる」という強い(つまり、現実との整合性が高いように思わせる)因果関係を伴い、多くの人間に共有されている幻想のことである。ストーリーというよりシナリオ、あるいはロールモデルと言った方が的確だろう。その最たるものは科学である。これほど正確で束縛の強い予言を与える共同幻想はない。卑近なところでは「東大は人生のプラチナチケットである」「ポルノを読むと性犯罪者になる」なども立派な物語と言えよう。人間のあらゆる行動は今なお物語によって支配されている。それは人間が推測によってしか世界を把握できない存在だからだ。

 しかし近年になって、物語の在り様は大きく変容した。物語の「伝播」の仕方が変わったためである。

 かつて宗教≒物語が人々の生活基盤に深く浸透していた時代には、宗教の範囲は地域共同体の範囲でもあった。しかし時代が下り人と物の流れが活発になると、宗教は遠く離れた地域に伝播し、ユダヤ教に顕著に見られるような地域の枠を超えた宗教共同体が発生する。あるいは伝播の過程で宗教同士が交わって変質を蒙り、新たな宗教共同体が生まれる。このようなプロセスが延々と繰り返されたのが二〇世紀初頭までの世界の様相である。

 ところが時代が進むにつれ、情報伝達技術の発達が情報の価値の下落をもたらした。通信の技術――紙、活版印刷、電話、そしてインターネット――は、何千年もの間口伝による伝承に頼っていた民衆に、情報発信の主体となる機会を与えた。神の言葉を刻むために多くの血と汗を流して石板を切り出していた時代は終わったのである。情報の発信が容易になると、それまで石や粘土板に刻むに値しなかった日常の些細な情報が記録され、流布するようになる。そして文学が生まれ、芸術が生まれ、学問が生まれた。それらは全て人間の姿を映し、人間の思考に作用する情報の束であり、物語である。

 その結果何が起こったか? かつて大きな支配力を誇った神話・宗教の権威は膨大な言論に晒されるうちに綻び、その隙間に小規模で控え目な物語がおびただしく乱立し、人生を飾り立てる選択肢として個人の前に提示された。情報伝達のコストは確かに低減したが、人間はそれによって空いた時間を、より多くの情報で埋めずにはいられなかったのである。量・種類ともに豊かさを増していく情報に突き動かされて、生存を直接左右しない紐帯で結びついた共同体が活発に離合集散し、個人は自分のアイデンティティを容易にカスタマイズできるようになった。「世界の真理を探究することが貴い」という物語に惹かれた者は科学者になろうとするかもしれないし、「趣味に没頭することは人生の権利である」という物語を選んだ者はオタクになるかもしれない。最も彼の共感を呼んだ物語が、彼の見る世界を決定する。何が彼の共感を呼ぶかを決めるのは彼が過去に触れた物語である。過去にどんな物語に触れるかを決定するのは主に彼の養育者であるが、それに限られるものでもない。

 そして、物語の色眼鏡越しの世界を生きている彼は、望むと望まざるとにかかわらず、その物語を背景とした新たな物語を語り始める。語られた物語は何らかの形で他の人間の生に干渉する。社会のレベルで言及され、共有され、再生産される物語は「常識」とか「規範」などと呼ばれる。その意味で、物語は一つ一つが小さくなった今も、人間を宿主として繁殖と縄張り争いを続けている。


1ー3 物語の支配

 あらゆる情報媒体を通じて生み出される物語の多くは、模倣したところで現実世界にも同様の展開をもたらすようには思えない、一見すると荒唐無稽な代物である。例えば二十世紀末に放映された映画『天空の城ラピュタ』の筋書きはこうだ。――無学な鉱山労働者の少年の前に、ある日突然空から古代王家の末裔を名乗る美しい少女が降ってきて、二人は共に古代王国の謎を解き明かすべく軍を敵に回して上空に浮かぶ遺跡を目指す――。もちろん、こんなことは願望されることはあっても、現実に起こる蓋然性は限りなく低い。しかしこの物語の核にある「高貴な少女との突然の出会い、世界の秘密に迫る冒険」という構造は、「現実に起こるかもしれない」という漠然とした期待を人々に抱かせることに成功した。それは、この物語の世界観設定や人物の心情表現、作画、音楽が緻密で美しく、全体として「真に迫った」印象を与えていたからである。

 物語の乱立によって世界の見方が多様化する中では、判断のできない「現実に起こりそうかどうか」よりも、「現実に起こってほしいかどうか」、そして「語り方が現実と同等の質感・解像度を備えているか」の方がリアリティに寄与する。ファンタジーは多くの人間が持つ性愛や冒険の願望を刺激するものだが、中でも上の映画は現実に迫る精細さを備えた物語世界の中に非日常的な要素を織り込んだのである。その結果、この物語は人々の現実観を「美少女が降ってきてほしい」から「美少女が降ってくるかもしれない」へとシフトさせた。この種のモチーフは古代から貴種流離譚として存在したが、技術の進歩と物語の自由化・相対化によってそれに現実味を感じさせられるようになったのである。

 願望が期待へと変わった例は枚挙に暇がない。『電車男』に典型的な、「コミュ障の俺に可愛くて優しい処女の彼女ができる」という物語はその一例である。この場合は映画の代わりにネット上の体験談(あるいは妄想)にリアリティがあったと考えられる。強いリアリティを持った「例外」の物語に共感し、それをロールモデルとすることで、自分もその「例外」の一人であると信じることができるのである。古代に神話を模して儀式が行われたように、現代でも小さな物語について、「物語と同じ言動を取ると、その後も物語と似通った運命を辿る」という観念が広く共有されている。

 現代ではこの類比呪術の思考は「フラグ」と呼ばれることもある。フラグは人間の思考の基本単位が、一つ一つの行動ではなくそれらの連続した流れ、即ち物語であることを顕著に示している。最もよく知られるのは「俺、この戦争が終わったら故郷の幼馴染みと結婚するんだ」型の死亡フラグであるが、これは不吉な予感の方が人間の心理に短期的に影響を与えやすいからに過ぎない。一方で「アイし合う二人がトーダイに行くとね……シアワセになれるんだって」(『ラブひな』)型の幸福フラグを信じ、踊らされる人間も後を絶たない。


2 美少女

「この銀河を統括する情報統合思念体によって造られた対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース。それが、わたし」

(谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』)

2ー1 美少女の前夜

 かくして人間は大きな物語のまどろみから解き放たれ、小さな物語を自由に選び取る荒野へと投げ出された。そこは物語が激しく増殖し、衝突し、変質する弱肉強食の修羅場である。しかしそうなる遙か以前から、人間は物語の力を可視化し、制御し、利用しようとしてきた。

 物語は世界を記述し、また世界を変容させる。世界に手を加えるとは、物語を操作することであった。詩的に言うならば、物語との対話と呼ぶこともできよう。物語が人間にとって対話可能な形で語られるために人間が編み出した技術が擬人化である。例えば神話は人格を持った登場人物に溢れている。英雄や建国者だけでなく、水の精、火の神、物言う動物など、人でないものにまで人を模した形が与えられている。これらは自然に対する単なる生存本能が、その背後に動いている法則を知りたい、知って自然をより良く利用したいという願望に取って代わられた時に、対話のインターフェースとして人の形が与えられたのだと考えることはできないだろうか。人間はあらゆるものに人間を見出す生き物である。天井の染みや虫の模様が人の顔に見えるといった例は多い。

 世界と対話したいと願った時、そこに人格が生まれる。それまで「火は熱い」などの単純な観察に留まっていた自然への理解は、自然を意思持つ者と考えたことによって飛躍的に進歩した。別々の観察事実の裏に一貫性を想定するようになったからである。そして、自然観が変われば自然を記述する物語も変わる。物語が変われば祭祀が変わり、文化が変わる。その文化も、自然を擬人化した神の姿の中に反映されることで、物語に乗って他の共同体へと伝播しやすくなる。この伝播の局面においては、神々は自然の擬人化であるだけでなく、物語そのものの象徴でもある。ギリシャ神話といえばゼウス、「桃太郎」といえば桃太郎、という具合にだ。

 さらに、人間が会話や性愛を行うことに倣って、物語の交錯も人物同士の交流として表現すれば(例えば異文化の神同士が婚姻する神話を作れば)目に見える形で、場合によっては恣意的に変質を起こすことも可能だ。こうして情報の束に過ぎなかった物語は、肉体を持って他の物語と相互作用を始める。いわば物語の登場人物とは、物語そのものを担って遠くへ運んでいくキャリアとみなすことができる。それは場の量子論において、粒子が場からエネルギーを受け取って生成し、他の粒子と衝突して別の粒子に変わっていく様子によく似ている。

 現代にもこんな話がある。路傍に小さな鳥居を設置したところ、立ち小便や不法投棄が激減したという例が日本各地で聞かれる。「何の変哲もない路傍」という物語に、鳥居という呼び水が配されたことによって路傍が擬人化され、「路傍の守護神」とでも呼ぶべき人格が生成したのだ。物言わぬ路傍はたちまち雄弁に「見張っているぞ、罰が当たるぞ」と語るようになり、不法投棄者の行動に干渉した。そして鳥居の美化効果が広く知られるようになるや、同様の試みが全国に広がり、路傍の守護神は急激に増殖、あるいは伝播したのである。

 さて、かつて神や精霊が物語の擬人化として果たしていたこれらの機能を、現代においては美少女が担っているというのが本稿の中心的主張である。


2ー2 美少女の権能

 擬人化とは物語と人間との対話のインターフェースだった。その様式として美少女が選択されることは時代の必然であり、また合理的でもある。時代の必然は次の二つの事実によって説明される。一つは、小さな物語が台頭した結果、ムラ的な共同体の秩序に劣らず個人の内面が尊重されるようになり、個人が個人とどう付き合うかが人生の大きな関心事になったことである。もう一つは、元々人間の無意識に広く存在していた女性への畏敬が、情報の交錯が激化したことによって一挙に噴出し、希釈されたことである。

 太古から生殖の担い手として畏怖され、また欲望されてきた少女は、多く絵画や彫刻などの、そして何より詩歌の題材ともされてきた。それら芸術表現の技術が庶民にも広く共有され、作品が安価に創作され発表され評価されるようになると、芸術は単なる現実の反映や風刺であるだけでなく、芸術の蓄積それ自体が次の作品の題材となるという形で、現実から半分独立した領域となっていく。美少女表現も例外ではない。模倣と差別化の連鎖を経るうちに、現実の性の対象の代替物という最初のコンテクストが重要性を失い、ただ「美少女とは何か“佳きもの”である」という観念が抽出された。美少女は性の対象であってもよいが、そうでなくてもよいのである。

 つまり美少女は、ストーリー中に生きる一人の個人として扱われると共に真・善・美の象徴でもあるという二面性を持つに至った。この事実から、美少女へと擬人化することの三つの意義が導かれる。それは、

  1.  美少女は男女いずれにも受け入れられる。

  2.  美少女は個人と対等に相互作用できる。

  3.  美少女は嫌われたくないという感情を誘う。

である。①は男性の欲望の客体である必要性がもはやないから、②は個人主義の帰結、③は美少女が“佳きもの”としての性質を含むからである。これらはいずれも、かつての神に取って代わるための必要条件である。

 まず①③によって、人間は物語に感情移入し、物語のことをもっと知りたい、自分も物語に関わりたいと考えるようになる。美少女は感情移入を容易にするためのインターフェースとも言える。しかしその感情移入は、そこに美少女の姿を幻視しない人間にとっては全く理解不能な代物かもしれない(後で述べるように、美少女でありさえすれば必ず感情移入できるわけではない)。

 必ずしも感情移入できるわけではないことは②と関係している。即ち、かつて共同体によって共有されていた神は今や一人一人に個別に帰属している。しかも美少女は神と違って、対等な存在として友情や愛情を向けることが許される。さらに、個人に帰属している代わりに、個人は自分の見出した美少女のことを小説や漫画などの形で発信することで、ネットを通じて全世界に伝播することができる。その結果、最初の一人と同じ物語に美少女の姿を見、それまで関心のなかったものに感情移入する人間は増えるだろう。


 感情移入というが、これは只事ではない。小さな物語たちが人生や世界を構成する現代では、物語に感情移入するということはその物語に大きく影響された人生を歩むということに直結するからである。つまり美少女は人生を狂わせる精神の病に喩えることすらでき、それは優れた表現に媒介されて、その背負う物語と共に感染する。これが情報化社会における新しい神の在り方である。


2ー3 美少女の発見

 二十一世紀の初頭まで、物語を美少女に象徴させて盛んにやり取りする文化は小説・漫画・ゲーム・アニメの一部の領域に閉じ込められていた。その状況を打開し、文化のあらゆる領域に美少女が顔を出し始めるきっかけとなったのは、思うに二〇〇八年発売の「萌え米」であろう。美少女のイラストをパッケージに印刷したこの米は、秋田県雄勝郡羽後町のうご農業協同組合から発売された。サブカルチャーの趣味人口が増加してきたことを受けた、迎合的とも言える企画だったが、結果的にこの商品は話題になり、以降あらゆる農産物・サービス・自治体・エトセトラが戸惑いながらも美少女のマスコットキャラクターを作るようになった。また本家であるサブカルチャーの側も、以前から存在していた擬人化モノの作品をより広く売り出す方法を模索し始めた。

 しかし、萌え米は一般大衆の持つ美少女への抵抗感を低減させたものの、萌え米それ自体が熱狂的に愛されたとは言い難い。より強い力を持っていたのは言わずと知れた初音ミクである。彼女の最大の特徴はその背景に物語を一切持たないことだった。ただ美少女の容姿に歌わせる機能が付いただけの、プロフィールもほとんどない、徹底的な「素材」として彼女は現れた。他に重要なことは、そもそも歌というものがある程度の長さを持ったテキストであるということ、作品が動画の形で投稿されることでミクの外見にも若干の差別化をする余地があったこと、ニコニコ動画がアマチュアによる多様な創作とその連鎖を引き起こしやすい仕組みを持っていたことだ。

 素材としての美少女、十分な物語の量と幅、その幅を表現するための外見の変異、情報が高速に伝播し再生産される環境。これらが揃ったことで、彼女の登場は人類社会に、あらゆる物語にその主体として美少女を「代入」することができる、という革命的な気付きをもたらした。

 例えば初音ミクに「お米を食べよう」という趣旨の歌を歌わせて動画を作ったとしよう。歌詞によっては、それは「米が美少女になってメッセージを発する」という擬人化の形を取るかもしれない。ミクの容姿に米らしい特徴を加えて動画に出演させているならなおさらそう見えるだろう。しかし同時に、この動画のミクは「お米を食べよう」というにもなっているのだ。事は米に限らない。人間が代弁すれば嘘臭くなってしまうメッセージ――『初音ミクの消失』や『はやぶさ』がこれにあたると筆者は思う――さえも、誰でもない存在である初音ミクならば担うことができる。これらは、ミクというキャラクターがなく発声機能のみが存在したなら、あるいはミクが彼女独自の物語を初めから持っていたなら起こり得なかった事態である。

 初音ミクの出現によって、我々の「擬人化」の概念は大きく拡張されたと言える。。ある情報が「何か」を記述した物語であり(これは自明に常にそうだ)、その「何か」と関係を持ちたいと人間が願うとき、その情報はある強度で擬人化されている。そして2ー1節で述べたように、物語は人の形を取ることで、他の物語と相互作用して新たな物語を生み出す力を強める。現に初音ミクの成功は「ボーカロイド曲」というジャンルを生み出し、さらなる創作人口の増加に大きく寄与した。また後発のボーカロイドも続々と発売され、彼女たちとミクとの交流を描いた作品も多くある。


2ー4 美少女の受容

 ここで先述の萌え米の話に戻ろう。萌え米は、いわば「オタクだから美少女の絵のついた物は買わねばならない」というゼロ年代的強迫観念で買われていたもので、美少女自身との対話が確固として成立していたとは言い難い。それは商品が、「この子と対話したい」という欲望を喚起する力に乏しかったからではなかろうか。伝統的な宗教の神霊なら、「依代は用意したが、魂が宿っていない」状態がこれにあたるだろう。擬人化して美少女になりさえすればいくらでも感情移入できるというわけではなく、その美少女のふるまいによって感情移入させる力の強弱に差が出る。萌え米に続いて続々と現れた萌えキャラ町興しが、しばらくの間鳴かず飛ばずの時期を経験したのはこのためだ。

「米の物語」を擬人化した美少女は、生産者の手を離れた瞬間に、「米の物語を擬人化した美少女と消費者との物語」を紡ぎ始める。それは物語が伝播するということに伴う必然だ。より厳密に言えば、「米の物語の擬人化」が米のパッケージから消費者の脳へと伝播した際に、新たに「米の物語の擬人化を見て消費者の脳に喚起されたイメージ群の物語の擬人化」へと変化した、ということになる。人間と美少女との関係は、全てこの新しい物語の上で形成される。故に、愛着を持って継続して買ってもらうためには、言い換えれば「この子と仲良くなりたい」と思うほど強度の高い擬人化をしてもらうためには、複雑なイメージ群を喚起させなければならない。どのようなイメージ群を喚起するかは消費者がそれまで見聞きした物語の蓄積によるところではあるが、追加情報を呼び水として配することでその方向性をある程度制御することができる。

 例えば次のような漫画を公式サイトで連載したらどうだろう。――萌え米を通販で買った大学生の下宿にこの美少女が現れ、おいしい米の研ぎ方・炊き方やおかずの作り方を手ほどきし、一緒に食事をし、恋愛を応援し、時は流れ、彼の結婚と共に姿を消した彼女は彼の臨終の時に再び現れ、彼だけに見える姿で愛を囁き、彼の肉体と共に火葬され、そして時は流れ、大学生になった彼の孫が萌え米を通販で買う――。

 このようなロールモデルを提供することによって消費者は、この美少女を単なる米の袋に描かれた絵ではなく、自分の生活に寄り添い自分の身体を形作る同居者と感じ、愛するやり方を知るようになる。実際にこのような手法は既に各所で試みられ、美少女を用いて物語に愛着を持たせることに成功した例も数多くある。それらは全て、二次創作をはじめとした「消費者自身が紡ぐ物語」によって発展したコンテンツである。初音ミク然り、戦史を擬人化した「艦これ」然り、全ては消費者一人一人と彼女たちが多様な関係を築いていくのを後押しすることこそが成功の最大の要因なのだ。


2ー5 美少女の遍在

 物語の擬人化という抽象的な主張を次のように理解することもできる。即ち、擬人化で生じた美少女とは、その物語についての全ての情報を持っている存在である、と(ただし、質問してもそれを教えてくれるとは限らない)。軍艦を擬人化したなら、その軍艦についてさも自分のことのように何でも知っている美少女に。戦史を擬人化したなら、戦争についてさもこの目で見てきたかのように何でも知っている美少女に。いわば美少女はその物語におけるラプラスの魔である。

 しかし「物語についての知識」と「モノについての知識」との境目はどこにあるのだろうか? 軍艦についての情報とは、その建造の経緯や戦争に与えた影響まで含めれば、無限に拡大して世界史全体についての情報と区別がつかなくなるのではないか?

 この疑問への一つの答えは、「明確な区別はつけられなくても構わない」というものだ。素粒子理論では粒子は固体としての境界を持っているものではなく、波として空間に広がっているが、その大きさは他の粒子と衝突した時の散乱確率によって実効的に決めることができる。同様にモノも、本来は情報空間に広がっている物語の中の、ある特徴的な一部の領域をそう呼んでいるだけのもの、と考えればよい。即ち、。八八計画で建造された何か、ビッグ7の一つと呼ばれた何か、クロスロード作戦に供された何か――それらの情報の共通部分が「戦艦長門」と呼ばれている、と考えるのだ。元々人間は混沌とした情報の連なりを意味記号によって分節した後の世界のみを見ているのだから、モノがそれ自体としてはっきりした輪郭を持っているかどうかなど、どうして知ることができるだろうか?

 こうしてモノと物語は統一的に理解される。それはエネルギーと質量が等価であるという相対論の描像ともよく符合する。物語というエネルギーの詰まった場に生成演算を施すことで、場からエネルギーを分け与えられてモノという粒子が発生する。我々人間とて、生物の進化の歴史、社会の発達の歴史、個人の生活の歴史という情報の海に、生命活動という演算が施され続けた結果としてここに存在しているではないか。情報の交叉点としての「人間」の定義は今後も変容し続けるに違いない。それは我々の主観の中での変化に過ぎないかもしれない。言い換えれば、変容していくものは「人間とは何か」という物語に過ぎないのかもしれない。しかし、それで十分ではないのか?

 そして、人間が物語と対話したいと願えば、物語はその人間が最も重視した(つまり、密度を見出した)箇所を中核として美少女の形を取る。モノは人間の意識に上りやすいため美少女の核となりやすいが、モノそのものが擬人化されたのではなく、モノを存在せしめる物語全体が擬人化されたのだということに注意しなければならない。

 こうして、世界の全ては物語として記述されることになる。あらゆる物語からは美少女が生成する。人間が意識を向けた所、そこに美少女が現れる。即ち――。私たちが今生きているのは、まさにそのような時代の夜明けなのだ。


3 世界

「 夢みたいな景色を 怖がる人はいない と思います 」

(高橋弥七郎『灼眼のシャナ アンコール』)

3ー0 美少女のいる風景

 人間は情報の束に物語を見出し、物語から美少女を生み出し、美少女との生活を幻視し、美少女に導かれて運命を変えていく。人間と美少女との共同作業。その最前線は紛れもなくここ日本であろう。それはヤマト朝廷が記紀編纂時に地方神話を取り入れて宥和を図ったことに始まる八百万の神々の文化――「どこにでも神は宿る」――も大きく手伝っているだろう。しかし二十一世紀の日本に棲んでいる美少女の数は八百万どころではないのである。

 さて、今日一日の生活を振り返ってみよう。朝目が覚めた時に肩を揺すってくれたのは誰? 袖を通すと木綿の肌触りで背中に覆い被さってきたのは誰? 足首から腰にかけてベルトで抱きついているのは誰? レールの振動を伝えながら「満員だけどごめんね」と声をかけるのは誰? 運賃を引き落としながら「別に待ってたわけじゃないわ」と言うのは誰? あなたが大学へ行った後、誰もいなくなった部屋の隅にぽつんと座り込んでいるのは誰? 天文学の成果を基にニュートンらによって定式化されたのは誰? ドイツの公用語は誰? 生協のおにぎりの棚の後ろからこちらを見ているのは誰? 学生会館の4階に部室を持っているのは誰? 東京の冬をこんなに寒くしたのは誰? あなたがドアを開けると慌ててベッドの下に隠れるのは誰? フライパンを持つ手を見守っているのは誰? ゴミ袋の中で不平を言うのは誰? 蛇口をひねるとシャワーから飛び出してくるのは誰? あなたの夢に毎晩出てきて毎朝忘れられているのは誰? あなたは誰?

 かくして美少女を知った人類はこの宇宙の全てと語らい、全てを愛し、全てに抱かれて生きていく。そこに孤独はない、いや、孤独さえもが美少女だ。過去、現在、未来が私たちの恋人になる。数え切れないほどの美少女に手を引かれ、私たちの永遠の青春がこれから始まるのだ。


〈以上〉

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