これからの時代において自分らしさを作りあげていくための自由・決断・責任の理解
日常には情報が溢れている。
その情報を積極的に受け取ろうとする者にとっては、
情報が溢れている事は、
すごく多様性があり、選択肢の多い社会だ
と感じる事だろう。
一方、
情報を受けとる事もせず、情報に左右されない生活を送ってる者にとっては、
多様性を受け入れる事ができず、住みにくい社会になったな
と感じるはずだ。
なぜそんな考え方をするんだ。
そんな考え方は間違いだ。
という思考回路にきっとなっているに違いない。
この両者の決定的な違いは、
自由と決断、そして責任にあるように思う。
多様性があり、選択肢が広がるという事は、
自由度が高くなった
と言える。
決して、自由=わがままではなく、
一定のルールのもとで自由度が高くなったという意味なんだが。
自由度が高まると、選択する機会は増え、それだけ決断をしなければいけない機会が増える事になる。
人は行動をする際、あらゆる場面で無意識に選択をしていると言われているが、
選択肢が増える事によって、無意識だった選択に、決断が伴わないといけなくなるだろう。
それを生き方が難しくなったと解釈してしまえば、
情報を遮断してしまっているのと同じなんだが、
自由=わがままではないと言ったが、決断に対して責任が伴わなければ、ルールも曖昧なものになってしまい、
自由度が高い事が、どれたけでも好き放題やっていいというわがままになってしまう。
こう考えると、
いっその事、情報なんて遮断してしまって、我が道を進んでいくだけの方が本当は自由なんじゃないか
という考え方だってできるようになってくる。
ここで難しくなるのは、多様性が認められるという事は、それだけ個人がフォーカスされるという事なので、
我が道を行くみたいな自分らしさは必ず必要になってくるという事。
だが、
無知である自分らしさ(情報を遮断してしまう事)は、
個人的には、自分らしさにはならず、わがままと同列に位置しているように思う。
自分らしさとは、
色んなものを受け入れた上で、取捨選択(判断・決断)を繰り返しながら、責任ある行動ができる事
なんだろうと思う。
そういった感覚の中で、自由を解釈できれば、可能性に満ち溢れた社会になってきたと思える事だろう。
では、そんな社会の中で、子ども達に色んな事を教える立場にあるべき大人は、どんな役割を担っているんだろうか。
まずは、自由である事は、多様性があり、選択肢がたくさんある事を教えてあげないといけないと思う。
教えるべき大人自身が、情報を遮断してしまい、自己の偏った考え方を押し付けてしまっては、
これからの社会を生き抜いていかなければいけない子ども達は、きっと行き詰まってしまうだろう。
その上で、自由の履き違えが起こらないように
自由には、決断と責任が伴う事を教えないといけない。
子ども達の未来に触れるという事は簡単ではない。
それこそ、大きな責任を伴っているという自覚が必要だ。
子ども達が自分らしさをもって、自分の人生をデザインできるようにサッカー指導だけに限定された指導者であってはいけないと思う。
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