5年という月日は、早いのか。遅いのか。

5年前を最後に更新が途絶えた、というか見ること書くことをやめたアメブロを5年ぶりに開いてみた。

そこには、ああ、離婚の代償の傷がとびちりまくっていてだいぶ収集不可能な文字たち。あまりの憎悪のエネルギー。

血が滲んでいるのがよくわかる。文字から伝わる感情に、5年ぶりに涙が滲む。

人は別れるために出会うというが、
別れるために出会うならもう出会いたくないというのが本音だ。
もうわかってるからだ。
 いつか別れる それがただ今日なだけじゃないこと。ベストセラーしたこの本のタイトルを横目にいつも生きてたはずなのに。

いざの別れは息もできなくて、色もつかなくて、自分をすべて否定したくなる。

それだけはしちゃいけないとわかっておきながら、
相手の不幸を少しばかり願う。

何年記念日。とか何年ぶり とか意外と自分は年月や数字を気にする。

永遠があるなら、そんな数字なんていらない。
そんな試すような数字なんていらない

でも永遠や確かな明日がないから、わたしは気にする。

それまで傷つけて傷つけあって紡いで繋いでまた傷つけて、の意味を少しでも形、数字として知りたいからだ。
今いる自分は、消えたい夜も超えてきた自分。
すこしでも労って赦してあげたいからだ。

夜がこわい、漠然としたいつもの不安をぶつけるわたしに
細胞一つひとつすべて愛してるよ。あいこ。という彼との喧嘩もフルスイングで殴って、テンカオかまして、自分もあざだらけ。ジェルネイルぜんぶ折れるという狂言をたまにやってのけるのだが、
それさえも愛 らしいのだ。笑

少しの延長がゆるされるのならば、
今いる大切なひとが大切なひとでいられますように。

さよなら、またいつか。のいつかまで、わたしは生きているから、

あなたもどうか、いつかまで。


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