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双極性障害とは?

今回は、少し長くなりますが、双極性障害という「障がい」について説明したいと思います。

双極性障害の患者を家族に持つ方々による「家族会」で、ノーチラスという名称の団体があり、そちらのホームページ内、ブログに「書籍・文献」というページがあります。
ここで掲載されている「一般書」を、以下、Amazonからリンクを貼っておきます。

ここ日本では、加藤忠史氏という方が「双極性障害」を専門とする医者、研究者として、第一人者です。
少し「専門書」になってしまいますが、双極性障害について網羅されている医学書が、こちらになります。

医学書は専門書になるので、1冊あたりが高額ですが、最新版である「第3版」でなければ、とても低額で手に入ります。おススメです。

※内容は、最新の医学的見解ではなくても、医学書として基本的理解をするためであれば、第2版でも十分かと思われます。

また、米国精神医学会の治療ガイドラインとしての1冊も、少し古い本ですが、医学的な専門知識も含めて、双極性障害を理解したい人には、おススメです。

上記、一冊は、私も、かつて読みました。

さて…書籍に関する情報は、これくらいにして、双極性障害について、医療従事者ではなく、一般の方が、これを理解するためには、以下のリンク先、この一読を、おススメ致します。

また、厚労省も、双極性障害についての解説文を掲載しています。

最後に、双極性障害、当事者が、自分の病状を、どのように日常生活のなかで管理しているのか、そのチェックシートを、参考までに、ご案内したいと思います。
※症状が不安定になったときに、私が用いて自己管理をしているものです

「SRM」とは、ソーシャル・リズム・メソッドの略でして、日本語では「対人関係療法」と和訳されている言葉になります。そのバージョンが「2」である…といった意味で「SRM-Ⅱ」と書かれています。
※英語版です
「いつ」「だれと(どのくらいの人数に)」「どんな状況で(仕事、学校、ボランティアなど)」で、出会ったのか?という、その状況を、4段階評価します。
この表には、起床時間、最初に人と接した時間、活動時間、夕食の時間、就寝時間を記入することができ、さらに、その日の「気分」と「気力」を10段階で自己評価する欄も設けられています。
規則正しい生活、きちんとした十分な睡眠、過剰でない限られた人間関係が、双極性障害と付き合っていく、その鍵になります。

最後に、自らの体験作文を、NHK障害者福祉賞に応募した、その文章を、以下に記しておきます。
「わたし」にとっての双極性障害、体験記です。
ご興味のある方は、ご一読を賜れば幸いです

題名:生き残る日々を過ごして
膵臓(すいぞう)がんの末期であることが分かり、闘病生活を余儀なくされた父を見舞いながら、わたしの人生観は大いに揺れていた。
祖父の死のときにはなかった動揺が、自分を襲っていると、はっきりと自覚したとき、ほぼ同じ頃に、キリスト教はカトリックで洗礼を受けた。それは肝炎の急性増悪だったかもしれない寸でのところで、大病をやり過ごした経験から回心した結果によるものだったが、わたしは一命を取りとめて、父は、医学という地上的な権威から「死」のお墨付きを得てしまっている状況で、それがやるせなかった。
もし、父親な亡くなったら、わたしは、神さまを信じていたとしても、その悲しみを越えられるのだろうか。そのことだけが不安だった。
母方の叔父が措置入院の過去があり、それが、ちょうど叔父が父親を亡くしたことによる「葬式躁病」の延長線上での出来事で、診断名は「双極性障害」だった。
親族から精神病の患者が出ることの、周囲からの白眼視に、まるで急き立てられるかのように、叔父は、その短い人生を閉じた。
それは医療事故による突然死だったが、もし叔父が精神病患者でなかったら、起きなかったような出来事であったことが、より、いっそう、残された家族の悲しみを深めた。
葬儀に立ち会いながら、精神病という、得体のしれないものが宿ってしまった、早すぎる死だった叔父の亡骸を見届けながら、いつか、自分も、父親の死に遭遇したときには、叔父がそうであったように、嘆き悲しみ、狂ってしまうのか、という恐怖を、自分の将来に、その不安として抱え込んでいた。
父の末期がん、その病状が悪化するのを後目に、日本でも屈指の山岳レースに参加することをわたしは目指した。
父は、若かりし頃に登山を趣味として、冬の北岳に登頂するなど、ちょっとした山男だった。そんな父の世界に少しでも近づきたい。まだ、生きている父と、登山の話がしたい。そんな一念が、わたしの挑戦を支えていた。
登山経験が、まったくないところからのスタートだった。日々をトレーニングに費やし、いつしか目標は達成された。完走が果たされたとき、わたしは、そこで10か月を要してしまっていた。ますます、父との、今生での時間は、限られたものとなっていたが、それでも、父が、最も愛した趣味である登山を通じて、彼と、話がしたかったのである。
なぜ、親族が末期がんであったのに、「ハセツネ」と呼ばれる、71.5㎞の山岳レースに参戦し、それを完走しなければならなかったのか、それは周囲にとっては謎でしかなかった。
明らかだったのは、もはや病床にある父の手を、そっと握ることではなく、何か、それ以上のことを、わたしは、父が生きている間に、望んでいる、そのことだった。
わたしは、父と、登山を通じて、親子の会話をできる自分を望んだ。誰恥じることなく、胸を張って、『おやじ、山岳レースに完走したんだ。』と伝えれば、何かが変わると信じていた。
父は晩年に「常念岳」からの眺望が、自分の登山経験において、最も美しかったこと、そして上高地の景色が、桂川が美しかったことなどを、淡々と言い残したあとに、『もう、一度、行きたい』と、もはや登山など適うはずもない、病魔に蝕まれた、痩せ程ったカラダを横たえながら、嘆息したのだった。
そんな父は、もうすぐ亡なろうとしていた。
わたしは心の平安を探して、父の死という現実から逃げ出すかのように、老齢のイエズス会司祭に「とりなしの祈り」を求めるべく、修道院で催されていた「集い」に通い始めた。
父は仏教徒だったが、司祭は、「すべてのひとのために」十字架に掛かった救い主のことを、わたしに告げた。
洗礼を受けなかった父でも、救いの手が差し伸べられるのだという安堵感が、とてもありがたかった。
それは教理というよりも、司祭の「やさしさ」だったのかもしれない。
すべてのひとを分け隔てない、神さまからの視点は、わたしにとっては深い「なぐさめ」となった。
父が行く先が、仏教で何と名付けられていても、キリスト教徒のわたしは、死後、そこで再び再会できるのだろうという「約束」が、わたしは欲しかっただけなのかもしれない。
離別とは、それっきりであるとすれば、あまりにも耐え難い感情の波であった。
そして父は亡くなった。悲しかった。秋の出来事だった。
わたしは、嘆きのあまり、激しく狂ってしまうことはなかったが、翌年の冬には原因不明の疼痛に悩まされることになった。
当初はリウマチを疑って、大学病院で検査を受けたが、外科的、内科的には「異常なし」ということだった。
残るは心因性の病ということで、生まれて初めて精神科の門をくぐった。
『うつ病からくる関節痛です』と、主治医は告げた。
心因性の、関節の「痛み」を抑えるために、サインバルタ、リボトリールという薬が処方された。
主治医の見立ては正しかったのか、あれほど私の日常生活を困難にしていた激痛が、半年のうちに改善した。
「痛み」はたしかに消えた。しかし「うつ状態」だけは残ったままになった。
思い起こせば、父親を「末期がん」で亡くして半年、その「喪失感」から「うつ」になることは、ごく「普通」の「心の反応」だと、自分でも思えた。
必要なのは、しっかりと静養すること、あとは否が応でも精神科に通院し、薬物療法を継続する、それが唯一の解決策だった。
とは云っても、精神科への受診は、正直なところ、嫌だった。
「うつ病」が治ったら、精神科へ通院することを終わらせるんだと、そう思っていた。
そもそも「精神科に通院している」ということに、自分が社会から落ちこぼれてしまっているかのような、もし誰かに知られてしまったら、「精神病」という偏見を持たれるのではないかという、そうした他者からの視線に、わたしは怯えていた。
そんな自分の気持ちとは「うらはら」に、治療が数ヶ月と続き、薬が幾度か変わってゆくなかで、パキシルという名の「抗うつ剤」を処方されたとき、服用後、わたしの病状は激変した。数週間で「躁転(※患者が「躁状態」になること)」してしまったのである。
「双極性障害」でなければ「抗うつ剤」によって躁状態になることはない。
わたしに処方される薬は、デパケンという名の、気分安定剤という、躁うつ病の患者にしか処方されない、それに変えられた。
主治医は、薬は変えたが、病名までも変わったことを、その場では告げなかった。
ショックだった。自分が「双極性障害」という精神疾患であるかもしれないことを、その事実を、受け入れることを躊躇し、すぐにはできなかった。
自分が、人生の半ばで、母方の叔父と同じ病名となったことは、わたし自身も、ひと昔前は「躁うつ病」と呼ばれた、その病名に、自分の実人生を重ねなければならないことを意味していた。
これから先、生きてゆくことに、少なからず不安を覚えた。
そもそも「精神病」という言葉、まるで「精神」が病んでしまっているかのようなレッテルを貼られるのにも、当時は恐怖を覚えながら、精神科を受診していた。
脳内物質が影響しているのであれば、本来は「脳」の病気であり、体の病ということにはならないのだろうか。
わたしたちは、身体障がい者なのではないか。
平然と用いられる「心の病」という言葉でさえも、どこか捉えどころがなく、病者本人を不安に陥れるに十分な力を秘めている。
こうして、わたしは、叔父と全く同じように、父の死を「きっかけ」にして「双極性障害」という脳の病気が、医療機関への通院により、明らかになった。
おそらく叔父も味わったであろう「責苦(せめく)」、それは周囲から向けられる精神病ならでは偏見と、「どうして私がこの病気になったのか?」という自問自答が、静かに、ゆっくりと始まったことを意味した。
そして「病気である」ことを当然として、新しい自分を少しずつ受け入れてゆく中で、この病が、ここ数年以内で起こったものではなく、随分と前から、すでに始まっていたであろうことも、医学書などを散見するうちに、知識を深めるなかで、気付きを得ることができるようになった。
双極性障害という病は、その発症期が10代後半から20代前半が大半を占める。これの意味するところは、もしも主治医の診断名に間違いがなく、自分が「双極性障害」であるならば、その「病気である」ことに発見が遅れただけのことであって、昔から、そうだった、ということになるのである。
わたしも、自分の人生を冷静に振り返ってみると、大学生だった20代前半に、軽躁状態が続き、ろくに大学の授業にも出席せず、環境保護運動はインターカレッジのサークルに精を出して徹夜を繰り返したり、それを終えたかと思えば髪型を丸坊主にして三島由紀夫の憂国忌へ参列したりした。
そうして躁の波が過ぎ去ったとき、激しい「うつ状態」へ転じてゆき、挙句の果てに、人生に絶望し、自殺企図に至っている。タバコのニコチンを煮出して服毒自殺を図ろうとしたが失敗、幸いにして命は取り留めたが、あの「うつ期」が、わたしにとっての「双極性障害」の「はじまり」だったのだと、今では思う。
双極性障害には「うつ期」がある。
それは、だれも仲間もなく、孤独に、出口の見えない深い横穴を這いつくばって進むかのような、一条の光さえ差し込まない、明日への希望が持てない日々の繰り返しである。
過ぎ行く時間(とき)が、まるで鉛(なまり)のように重たく感じる、あの独特の感受性は、青春には、あまりにも酷(むご)かった。
あまり知られていないが、双極性障害は、精神疾患の中で、もっとも自殺率が高い病気でもある。
ある医学的調査によれば、患者の15%から20%は「自死」を選んでいるというが、当事者の立場からすると納得できる数値ではある。
ちなみに「死にたい」とするには活力が必要で、「うつ期」の真っ只中にあるときは、それを実行できる「決意」さえも湧かないが、皮肉にも、「うつ期」を乗り越えて「元気」を取り戻したとき、死は選ばれる。
その人たちの気持ちに共感できるだけ、同じ当事者としては、こうして死を語るのは、やはり辛い。
単なる「死にたい」という気持ちだけでは、人は亡くなったりしない。
どうやったら「死ねる」のか、その「死に方」を具体的に決め始めたとき、いっそう、黄泉への旅路は近くなる。
では、どうしたら、双極性障害の患者は自殺しないで済むのだろうか。
今のところ、気分安定剤による薬物療法が最も効果的と言われている。
つまりは医者に通い続けて、薬をちゃんと飲む、という以外には方法がないのである。
「気分障害」という言葉がある。
それは「うつ病」も「躁うつ病」も総称した呼び名だが、要するに「気分」が安定せず、下がってしまっている(うつ状態)か、上がりすぎてしまっている(躁状態)か、どちらかに「偏(かたよ)り」があるところに、わたしたち当事者の特徴がある。
双極性とは、「下がる」気分の波と、「上がる」気分の波と、その両方を持ち合わせていることから付いたものだが、その上下の振幅と、波の間隔によって、細かく病名も分かれている。共通しているのは、自分の気分に振り回される「苦しみ」ではないだろうか、と個人的には思っている。
昨今では、この「双極性障害」という病名も知名度が上がり、闘病記や、赤裸々な告白のような体裁のものも書籍として出版されるようになり、あたかも「寛解(※かんかい、病状が安定すること)」が、いとも容易であるような誤解さえ生じさせかねない、そんな情報が増え始めているが、それは、この病に向けられている、ある種の「偏見」ではないかと、そう感じられてならない。
双極性障害という、病状に留まり続けることを強いられた人生の、「どうして私がこの病気になったのか?」という、深い淵の、心のうちにこそ、わたしたち、当事者の本当の居場所はあり、そこへ降りてきて下さって、身を屈めて、私たちの声を聴いてくれようとして下さる健常者の方か、もしくは当事者同士でしか、はたまた神仏でもないかぎり、わたしたちの本当の「苦しみ」は理解して頂けないのではないか、と心底感じている。
それは、時には本人を自死に追いやる「死にたい」ほどの「苦しみ」であり、実際に、わたしたちの仲間たちは、それによって、いなくなってしまっているのである。
こういった、生死に関わる、切羽詰まった話題を、多くの人は好まない。
それは「死」が恐ろしいものであり、不幸そのものであり、誰しもが逃れられない「定め」であるにも関わらず、不可知であるからなのだろうが、わたしたち双極性障害の当事者は、心の片隅で、その「生」と「死」の境い目を、幾度となく越えていく夜を過ごしてきた。
体は死なずとも、少なからず、その「いのち」を自ら削って、病とともに歩み続けてゆく日々の生活は、健常者の日常からは、想像に程遠い世界であると思う。
健常者の方々に、私たちの「何か」を伝えようとする余り、人生の成功体験などへと昇華させて「物語(ストーリー)」を築いてしまったのでは、この「双極性障害」の一端を伝えることはできても、その核心部である「苦しみ」への共感は得られないのではないのか。
そんな想いから、今、文章を書いている。
わたしは父が死んだ。
心の「癒(いや)し」は信仰によって多少なりとも得ることはできたが、悲しみを逃れることはできなかった。
そして、その悲嘆も束の間に、精神病であるとの診断を受けた。
父の亡骸は、先祖代々の墓には納骨ぜず、彼が生前に『もう一度、行きたかった』と言い残した場所に散骨して済ませた。
その帰り道に、林道で鳥たちが、まるで語り掛けるかのように鳴き声を響かせていた。わたしには、父が『ありがとう』と、そう言ってくれているように聞こえた。
あの峰々が見渡せる川岸へ、また、足を運ぼう。
それが私の墓参であり、この地上における、父との「再会」の場であろうから。
かつて、わたしを支えてくれた、老齢のイエズス会司祭にも、感謝を込めて、何度も、手紙を書こう。
黙想の家で、祈りの指導をする立場であった彼でさえも、人生の闇に包まれたとき、「すべてをお委ね致します」としか、祈ることができなかったという、その聖なる委託に向かって、人生を歩もう。
やがてキリスト教の信仰から、この病を、与えられた「恵み」と感謝できる、その日に向かって、進んでいこう。
明日も、明後日も、わたしから、双極性障害であることからくる「苦しみ」を、何ものでさえも、取り除いてくれることがなかったとしても、それを甘受しよう。
ただし、自らに、決して、終わりを告げることのないように、細心の注意を払いながら、服薬と、生活リズムの管理を怠ることなく、日々を過ごそう。
誰も、見ていないところでも、わたしのことを、しっかりと見守ってくださっている、かけがえのない御方を信じながら、この地上での旅を続けてゆこう。
いつの日か、この病と「ともに」ある自分と和解できる、その日まで、わたしの「歩み」は続きます。
最後に、わたしが、将来に到達したい自分の居場所を、聖書から引用して終わりにしたいと思います。
ご通読頂き感謝致します。ありがとうございました。
「わたしは裸で母の胎を出た。わたしは裸でそこに帰ろう。
主は与え、主は取られる。
主の御名は、ほめたたえられよ。」
(ヨブ記1章21節)

以上となります。
最後まで、読んで下さって、ありがとうございましたm(__)m

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