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メンタルヘルスとゴジラ:ゴジラ−1.0の感想

ネタバレあり
評価:4.4

第二次世界大戦が日本人につけた心の傷。
「PTSD」という言葉は、
第二次世界大戦が終戦したその数十年後、
1980年代のアメリカでベトナム戦争からの帰還兵に対する観察の中でようやく認知されるようになった。
ここ日本において
「PTSD」や「トラウマ」が広く認知されるようになったのはさらにその後のことだ。
しかし、「PTSD」や「トラウマ」という言葉がない時代だって、「PTSD」や「トラウマ」を心に負った人はいたはずだ。
ゴジラからは、そうした心理学が未発達であった時代に、凄惨な戦禍の心の痛み・傷から立ち直ろうとする、人間の力強い回復力を感じた。
私は子どもの頃はゴジラを見たことがなくて、
大人になってから、シン・ゴジラとゴジラ キングオブモンスターズを見たのみである。
ご興味のある方はどうぞ


人間の顔つきにリアリティーがない

まず、うーんと思った点であるが、
登場人物の顔立ちが昭和っぽくないというのがあった。
不思議なもので、古い時代の写真(映像)にうつっている人間の顔つきは、現代のものとかなり違っていると感じることがある。
もちろん時代とともに美人の定義が変わっているのだろうが、
美醜を求められないタイプの職業の人間まで、顔つきが違っている。
もしかすると、食べているものとか、得ている情報とか、考えていることとかが、顔に出たりするのかなぁと
ちょっとスピリチュアルなことも考えてしまう。
ともかくそういう意味で、
今作のー1.0も、
俳優陣の顔立ちや雰囲気が現代的で、
洗練されていて、垢抜けていて、現代的に相当なイケメン・美女であると直感してしまい、
なかなか終戦直後の日本という舞台設定に入りこめなかった。
泥っぽいドーランをどれだけ塗っていたとしても、
本当は垢抜けた人なんだろうなというのが分かってしまうので。
その点、蜷川幸雄だったかな?山田洋次だったか大島渚だったか忘れてしまったが、
ある有名な映画監督は、このリアルな「泥臭さ」を探して、地方の素人までスカウトしていたと言っていた。
そのくらい、「人の出す雰囲気」に敏感な作り手だっているのだ。

また、全員が役者としてキャリアのある実力者でもあり、
それゆえに全てにおいてこなれていて、「芝居っぽい」のがまぁ気になるといえばなった。
とはいえ、見ているうちにそこまで気にならなくなったが。

ゴジラとは何か

私はペットショップで16年働いているくらいかなり動物が好きだ。
そのため、海底から突如登場するゴジラに対しても、瞬間的には「かわいい」と感じてしまった。
しかし、その行動や生態が、
「なわばり意識」
「同族による、なわばり荒らしへの威嚇」
「同族の鳴き声を言語として理解できる」以外は、
鳴くことにも、吠えることにも、歩くことにも、破壊することにも、熱線を吐く時にも、
動物的な本能を感じられなくて怖かった。
ゴジラが何をしたいのか?まるで理解できなかった。
動物であればミドリムシだってウイルスだって、
「移動したい」「増殖したい」と行動に理由をつけることができる。
でもゴジラは、なんで今吠えたんだろう?なんで今電車を手に持ったんだろう?と大抵の行動が謎で、理解不能だった。
そのため、ゴジラは「生き物」というより「災害」のように感じられた。
その時、ふと思い出したのだが、
以前どこかで、
戦禍を生き残った方が、
第二次世界大戦中の敵国からの爆撃を「誰かがやっている」というより、「怪獣が襲いかかってきたみたいだった」と表現している文を読んだことがあった。
そのことを思い出し、「ゴジラ」とは、第二次世界大戦中の「戦禍」の具現化なのかもしれない、と思った。

ゴジラを倒すこと、トラウマを克服すること

私は心理学の教育を受けた専門家ではない。
しかし一般に、
人は、大きな、衝撃的な出来事に遭って命の危険を感じた時、
その後もくり返し、
その瞬間の恐怖や苦しみを鮮明に、
夢や白昼夢の中で思い出すことが知られている。
いわゆる「PTSD」「トラウマ」「心的外傷後ストレス障害」というやつだ。

身近な、小さなレベルでは、たとえば職場でものすごく意地悪なことを言われたり・されたりした時。
その場では驚いて、何も言い返すことができなくて、でも後になって、もっとああ言えばよかった、こんなふうに言い返したかった、と
いつまでも対処法を想像してしまうことがある。
もう過ぎたことだし、忘れてしまった方がいいと頭ではわかっていても、いつまでも頭から消えないことは誰しも経験したことがあるのではないだろうか。

この「ゴジラ」とは、
先の大戦で力なく、ただ蹂躙されるのみであった一般市民の一人が、
どうすれば、あの「戦禍」に立ち向かえたのか。
どうすれば、自分と家族と、ご近所さんと、その家族まで、あの「禍(わざわい)」から守ることができたか?
どうすれば、あの「禍」に勝つことができたのか?
そうした、考えてもしかたのないことを、
あえて考え続け、空想を広げる中で生まれた怪獣なのではないか、と。
でも、だからこそ、
誰にとっても、手に負えない、敵国も逃げ出すほどの、巨大な「怪獣」。
空襲や爆撃よりも強大な「怪獣」。
第二次世界大戦を止められるほどの破壊力をもった「怪獣」。
そんな「怪獣」がいたとしたら、それを「倒すにはどうしたらいいか?」
そう考えることは、
イジメられたシンデレラが、
冷たい床にうずくまって、一国の王子に見初められ、すべてがひっくり返る空想をすることと同じ機序の、心の痛みからの、逃避だったのではないか。
そしてそれはごく当然の、人として当たり前の心の動きで。
現代のように「PTSD」という言葉はまだない時代でも、
人々は芸術を通して、
残酷な戦争を咀嚼(そしゃく)し、消化しようとしていたということではないだろうかと思った。

戦前・戦後の日本、といえば、
今40歳の私の母の母、
私の祖母たちの世代が生きた時代だ。
私の祖母は亡くなって久しいが、
その世代のことを、
すごくタフな世代だと思う反面、
大変な時代を生き抜いてきたからか、
精神的な面でやや大雑把であるように感じていた。

でも、こうしてゴジラを生み出した人もいたのだ。
もしかすると、心の痛みを乗り越えようとして、
当時はカウンセリングや心療内科などもない時代だったから、
だから、自分の心に従うことで、
傷を癒そう、克服しよう、と空想を巡らせた人がいたのかもしれない。
その繊細さに、非常に共感と親しみを覚え、
この世代に対する認識を少し改めることともなった。

帰還兵の後悔と引き寄せの法則

不思議なもので、人は一度心に決めたことは、
いつまでも
その「一度決めた決意」に足が向くようにできているのではないか、と思うことがある。
そうした無意識のことを、
もしかすると時に「引き寄せの法則」なんて言ったりするのかもしれない。

敷島は特攻隊となり、一度は国のために死を決意した。
しかし戦争が終わってからもずっと、
その時にした「決意」の置きどころに悩み続けた。

敷島は、あのような体験をした者であれば当然であるが、
帰ってきてから塞ぎ込んで、自棄になって過ごしていた。
しかしゴジラを誰かが止めねばならぬ、
となった時、
もう一度、自ら死地におもむこうとした。
しかし特攻隊にであった時の敷島とは異なり、
多くの心の美しい人たちと関わる中で、
そうした「引き寄せの法則」を断ち切ることができたのだ。
だからこそ、敷島は最後に、自分の命を守ることができた。
目には見えないので、それゆえに地味な、
しかしドラマチックな変化が、敷島の内面に起きたのだ。
こうした内面の変化は思うよりずっと大変なことだと思う。
しかし、戦争とゴジラ、という
二つの大きな経験を経て、敷島が
傷を克服し、建設的な方向に成長するというストーリーは自分の人生にも一抹の希望をもたらした。
ラストも、浜辺美波演じる典子が死んでなくて生きていたのも、
ゴジラと戦い、勝ったことで、
人の命が軽視される世界から、
命が重んじられる世界に変化したことのメタファーとれて、とても良かった。

まとめ

少し前のシン・ゴジラも、
ゴジラキングオブモンスターズも、
このマイナスワンも
監督の渾身の一作という感じで、
重厚感あふれる傑作だった。
ゴジラと名のついた映画にはここのところハズレなしだ。
ゴジラとは、
恐ろしい「禍(わざわい)」の具現化であるが、
ほんの一瞬、生き物としてチャーミングで、
それでいて、日常生活で忘れがちな「畏怖」を起こさせる。
ゴジラが大きな身体で、人間の作った精巧な建物を一つ残らず粉々にしてしまう姿は、
非情にも感じるが、どこか爽快でもある。
そうしたあらゆる方面で精巧な作りの映画と出会うことができ、
休日に非常に有意義な時間を過ごせた。

ひとりで見たのでゴジラとツーショットとはいかなかった

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