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鬼滅の刃と死生観

今日は最近流行っている(もう昔の話かもしれませんが、、)鬼滅の刃の話を交えながら、死生観について考えていきたいと思います。

私は今、群馬に帰省しております。コロナの影響で帰省を自粛していたのですが、免許の更新をしなければならず1年以上ぶりに帰りました。

久しぶりに帰った実家で見つけたのは

『鬼滅の刃』

の漫画でした。アニメと映画は見たことがあったのですが、8巻くらいまでしか映像化されていないので(漫画は23巻まである)続きのストーリーを漫画で読みたいと思っていたところでした。

すぐに読み切ってしまったのですが、感想は「信念を持っている人はかっこいい!」といった感じですかね。ネタバレしてしまわないよう、あまり深いことは書かないですが「家族を幸せにする」とか「平和な世の中を作る」とか、それぞれのキャラクターが信念を持って生きているところが刺さりました。

さて、今回取り上げたいのは冒頭にも書いた「死生観」です。特に「死後の世界をどう考えるか」について考えていきたいと思います。

「鬼滅の刃」は、キリスト教の「最後の審判」に見てとれる世界観で描かれているような気がします。一言で言うと「死後に天国か地獄のどちらかにいく」という考えです。

作品中には、死に際に「おれは地獄に行くだろう」というような発言をするキャラクターがいたり、作者がそういった死生観を持っているのかなと思うようなシーンがいくつか出てきます。

また、仏教の「輪廻転生」に近いような考え方もありました。人は死ぬと生まれ変わり、別の生き物になってまたこの世界に生まれてくる、という考え方です。

「生まれ変わったら、結婚しよう!」みたいなことを言っているキャラクターがいるのです。

そんな中で、一人「死=無である」と考えるキャラクターがいました。それが鬼の”童磨”というやつです。そして私の死生観は、この鬼の考え方に近いです。

童磨はめちゃくちゃ強いのですが、感情がなく、執着心もないキャラとして描かれています。彼は言うのです。

「この世には天国も地獄も存在しない。無いんだよそんなものは。」

「悪人は地獄に行くって、そうでも思わなきゃ精神の弱い人たちはやってられないでしょ?」

悪役である鬼の発言ではあるものの、僕は「うーん、確かにそんな気がするなあ」と思ってしまいました。

死んだらどうなるかなんて誰にもわからないですから、自分が信じる死後の世界を信じれば良いのだと思いますが、私は「死=無」ではないかと思います。

僕のこの考え方は『「死」とは何か』という本がもとになっています。この本は「死は無である」ということを言っていると同時に「死は怖れるべきものではない」とも言っています。興味がある人は、ぜひ読んでみてください。

「悪人は地獄に行くって、そうでも思わなきゃ精神の弱い人たちはやってられないでしょ?」という童磨の発言は、なかなか的を得ていると思います。人の心に寄り添う”場所”である宗教が、「死」を怖れる人のために生み出したのが「最後の審判」や「輪廻転生」といった死生観なのでは無いでしょうか。

まあ、結局何が正しいかはわからないのですが。

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