そらら

おばあちゃんが亡くなってから半世紀近く経つというのに、ますますおばあちゃんの教えがよみ…

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おばあちゃんが亡くなってから半世紀近く経つというのに、ますますおばあちゃんの教えがよみがえる今日このごろ。なんでだろ?と、記していくことにしました。

最近の記事

おばあちゃんの、やいと。

今の時代、子どもが悪いことをした時の「お仕置き」は何なんだろう。頭をゴツんするのも、ほっぺを叩くのも、アウト。家から追い出すのも、晩御飯抜きも、アウトだ。 そもそも「お仕置き」という言葉も、普段の生活では聞かなくなった。特に子どもを育てる上では、禁句になっているようにすら思うけど。 親に叩かれたことがない私は、友だちからちょっとバカにされていた。「親に叩かれたこともないの?」なんて感じで。もっと幼い頃の「お仕置き」には、パンツ一枚残して服を脱がされ、裸足のまま外に放り出される

    • 五木ひろしとおばあちゃん。

      おばあちゃんは、目が悪かった。片目は白濁して失明しており、もう片方も緑内障で、本人いわく「ほぼ見えない」とのことだった。それでも、私たち家族のご飯を作り、家事はこなしてくれていた。 今思えば、それはそれは大変なことだったのではないだろう。 そんなおばあちゃんの楽しみはテレビだった。画面に近づいて見ていた、かな。そして、いつの間にか「五木ひろし」のファンになっていた。「どの曲がいい!」とか、「何時からこの番組に出るから、あとはよろしくね」とか、「レコードがほしい」「コンサート

      • のどに魚の骨が・・・その時おばあちゃんは。

        牛肉、豚肉、鶏肉、もちろん鹿も鴨も、とにかく”肉”が、生まれた時から苦手な私の大切なタンパク源は魚である。特に大好きということはないが、魚介類は普通に食べることができた。 しかし、小さな子どもにとって、魚の骨は大敵だ。おばあちゃんは、いつも骨抜きを使って抜いてくれていた。それでも100%骨を除くことはできない。のどに骨が引っかかり(刺さっているのだろうか・・・)、唾を飲み込むたびに「痛っ」と感じるのは、幼かった私にとって、とても我慢できないことだった。おそらく、おとなになった

        • おばあちゃんが教えてくれなかったこと。

          これまでおばあちゃんが私に伝えようとしくれた状況や内容をここに書いてきたが、実は反対に「ぜひ教えてほしかったなあ」ということもある。 一つは、動物と親しむこと。我が家で飼ったことがあるのは、小鳥のカナリヤだけ。それ以外には、夜店ですくった金魚とおじいちゃんが飼っていた鈴虫だけだ。当時は、玄関に鳥かごと夏には鈴虫の鳴き声が響き渡る家は多かった。 だが、子どもというものは、動物が好きだ。特に犬。私も例外ではなく、当時から怖がっていたくせに、近所の子が飼う犬には興味津々だった。

        おばあちゃんの、やいと。

          「青葉の笛」とおばあちゃん。 その6

          おばあちゃんが亡くなる少し前まで、つまり中学生1年くらいまで、おばあちゃんと一緒にお風呂に入っていた記憶がある。いや、一緒に入っていたというよりも、小学校の上の学年くらいからは、一人で入っていても、「ええか」と言っておばあちゃんが無理やり入ってきたものだ。自尊心や自立心が芽生えはじめていた時期で、ほんとうはとてもイヤだったが、黙って受け入れていた。だって、「ええか」の言葉が発せられた時には、すでに脱衣所の裸のおばあちゃんのシルエットが見えていたから。 その頃はおそらく無愛想

          「青葉の笛」とおばあちゃん。 その6

          おばあちゃんといっしょ。 その5

          ひとの箸の持ち方がとても気になる。 テレビのバラエティやCM、ドラマの中で、イケメンがおいしそうに食べていても、残念な箸の持ち方で私は興醒めしている。特に食品メーカーが明らかにヘンな箸の持ち方をしているタレントをCMに起用していることについては、クレームを入れたくなるくらいだ。 これだけひとの箸の持ち方にイチャモンをつける私はどうなのかというと、ほぼ100%正しく美しい持ち方だと自負している。それもこれも、おばあちゃんの厳しい指導のせい、いや、おかげです。 その昔、スプ

          おばあちゃんといっしょ。 その5

          おばあちゃんといっしょ。 その4

          今でも「おばあちゃん、お願い、助けて」とよく心の中で祈っている。 特に今年は、ふっと身体が熱く感じたり、喉が少しでもガラガラすると、「おばあちゃん、お願い、コロナだけは・・・」と祈った。その祈りが通じたのか、幸い今まで無事に過ごしている。 胃カメラを飲む前ドキドキが止まらない時、仕事でちょっとハードルが高いと感じる時、超楽しみにしていた舞台を観に行けなくなるんじゃないかと心配した時、家族の笑顔を祈る時・・・。 それにしても。気がつけば、あと数年で還暦を迎え、今ここに書い

          おばあちゃんといっしょ。 その4

          おばあちゃんといっしょ。 その3

          おばあちゃんはご近所に友達が多かった。と言っても、今のおばあちゃん仲間のように、おしゃれして連れ立ってランチに行ったりはしなかったけど。一緒に近所に買い物行くと、あちらこちらから声をかけられていた。いつのまに知り合うのだろうと、いつも不思議に思っていた。 今でいうかかりつけのお医者さんに一緒に行った時だった。待合室で、その頃仲良しだった同級生の男の子のお母さんとおばあちゃんが親しげに話しているではないか!おばあちゃんに、そのおばちゃんのことを教えたことはないはずなのに・・・

          おばあちゃんといっしょ。 その3

          おばあちゃんといっしょ。 その2

          毎日のように ”決まりごと” を厳しくしつけられた。『家族の誰かが出かけてすぐに掃除(掃き掃除)をしてはいけない』=これはなんとなく今でもわかる。家の中をハタキとホウキで掃除していた頃だ。家の中の掃き掃除では、主に玄関や勝手口の土間に向かってゴミを掃き出す。そのあと、外用のホウキに持ち替え土間のゴミをチリトリで集めた。ホウキで玄関に向かって掃き出す動きが、「戻ってくるな」という動きにも感じられるからだ。家族が無事に帰ってくることを願ってのものだ。 『洗濯物を物干し竿に通した

          おばあちゃんといっしょ。 その2

          おばあちゃんといっしょ。 その1

          おばあちゃんは、田中角栄さんが好きだった。おばあちゃんは、時々、角栄さんが居る方向だと言って(東京だか新潟だかよくわからなかったかったが)その方向に向かって手を合わせて拝んでいた。 おばあちゃんは小学校しか出ていない。だから読み書きがあまりできないと言っていた。つまり、”学がないこと”をとても卑下していた。今風に言えば、最大のコンプレックスだ。だから、自分と同じ小学校しか出ていない田中角栄さんが日本の首相にまで上りつめたことは、驚きであり、希望であり、おそらく”尊敬”に値す

          おばあちゃんといっしょ。 その1

          おばあちゃんといっしょ。 はじめに

          両親が共働きだったことから、私は完璧な”おばあちゃん子”だった。 3世代同居があたりまえだった昭和40年代に、母が正社員で子供服(のちに婦人服)販売員としてバリバリ働く家庭はあまりなかったように思う。大きくなってから、弟を出産後まもなく働きに出た理由を「このままでは、孫を溺愛する姑ともめるだけだと思ったから」と話していた。つまりは、いい距離を取るためだったようだ。当時はおそらく、母が働かなければならない経済的事情はなかったと思われるので、保守的な父がよく許したものだとも思っ

          おばあちゃんといっしょ。 はじめに